パラダイムシフト・ラブ

19

朝の準備はいつもと変わらず慌ただしくバタバタしていた。
忙しなく部屋と洗面台の行き来を繰り返し、あれが無いこれが無いとの独り言が飛び交う。
大人しくイルミはソファに座って気に入ったらしいコーヒーを飲みながら朝のニュースを見ていた。
時刻はそろそろ家を出る時刻を指そうとしていたので、イルミは「ねぇ時間」と声をかけると焦った声で「分かってます!」と返ってくる。
”女の子は色々と準備があるんだよ”と誰かさんが言っていたのを思い出しながらイルミは重い腰を上げた。
玄関先でパンプスを履いているを壁に寄りかかりながら見ていると、休日とは違う顔のと目が合った。

「出かける時は戸締りをしっかりお願いしますね」
「はいはい」
「お昼は冷蔵庫にあるタッパーのやつ、食べてくださいね」
「うん」
「あとは、えーっと、では今日は朝の燃えるゴミ出しをお願いします」
「あの緑のやつね」

そう言ってイルミが玄関前に置いてある緑色の袋を指差した。
それには頷いてみせて玄関を出ようとした。

「いってきま、す?」

腕を掴まれドアを開けるのを拒まれた。
何かと思い振り返ると大きな瞳が瞬きを数回繰り返す。
何か聞きたい事でもあるのかと思いイルミの反応を待っていると驚くべきことを口にした。

「報酬がまだなんだけど」
「は?」
「オレ昨日洗濯機回したじゃん」
「え、あ、あれは……練習のために……一緒にやりましたよね?」
「それでもオレは仕事をしたはず」

仕事となると譲れないようだ。
離してくれなさそうな腕に徐々に顔が赤くなるのを感じたが、照れている場合ではない。
女性の朝は一刻を争う。
特に出勤前となれば1分でさえも命取りになる時だってある。

「ちゃ、ちゃんと一人で出来るようになってからですよ!」
「……なら帰ってきたらよろしく」

スっと離れた腕を見てからもう一度イルミを見上げる。
手をひらひらと振りながら「いってらっしゃい」と無機質に言われ、は家を飛び出した。
エレベーターホールへと向かう間に手で扇ぎながら顔から熱を引かす事に集中した。

*****

その日の仕事はあまり手につかなかった。
朝、急な出来事もあったせいでもあるがスマホに届いていた彼からの連絡が原因だった。
今まで散々放置してきたくせに急に擦り寄ってくるような内容にはどうしたものかと考えていた。
社内の休憩スペースにある丸テービルでを待っている間、何度溜息をついたことか。
はてさてどうするべきか。

「ごめんね! お待たせ!」

急いで来たのか息を切らせながらはコンビニの袋をテーブルに置いて席に着いた。
ミーティングで遅れる事は聞いていたため、は笑いながら「大丈夫大丈夫」と声をかけた。
席に着くなり「ほんっと退屈なミーティングだったわ!」と文句を言いながら早速袋からカフェラテを取り出して勢いよく飲む姿には頬杖をつきながら笑った。

「ミーティングに参加出来るのは偉くなってる証拠だから良いじゃん」
「私はどっちかっていうと現場タイプなの。あんな話聞いてる間にキービジュアル1つや2つぐらい作れるって言うのに」
「まぁまぁ。はマネジメントも向いてると思うよ?」
「そりゃどーも。ってちがーう! 私は今日そんな話を聞きたくてランチに誘ったわけじゃないから!」

ドンとカフェラテを置いてが前のめりで詰め寄る。
は体を引いて目を点にした。
イタズラな笑顔を貼りつけながら「同棲している彼とはどういう関係なのか説明してよ」と小声で言う。
”どういう関係”とは先週イルミがからの電話に出てしまった件のことだろう。

「……えっと、どこから話せば良いやら」
「何よ何よ。私に隠れて新恋人? でもあの、営業部の宮前さんとは続いてるんでしょ?」
「うーん……続いている……のかなぁ?」
「何何!? どういう事なの!? ちょっとその辺も詳しく教えてよ!」

もしかしたら近くに営業部の人が居るかもしれない事に警戒して二人の声が自然と小さくなる。
本当の事を言ってしまえば頭がおかしいと思われるかもしれない。
それを懸念してはざっくりとイルミのことを説明することにした。

「ちょっとね、あの、詳しくは言えないんだけど、訳ありで今同居人が居るの」
「……それがあの、電話に出た人? めっちゃ馴れ馴れしかったけど、大丈夫なの?」
「に、日本の文化に馴染みが無いって言うか」
「何!? 外国人なわけ!? イケメン!? 金髪?!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて……!」

外国人と予想しているは「いいなー!」と背もたれに寄りかかりながら手をばたつかせた。
乾いた笑みを浮かべながらも買ってきたコンビニの袋にあるサンドイッチに手を伸ばした。
あまり食欲は無かったが午後の業務の事も考えて何か胃に入れないといけない。
少し潰れたタマゴサンドを頬張るとは「その事って宮前さん知ってるの?」と鋭いところを突いてくる。
無言のまま俯いて口を動かしてると「波乱の予感ー!」とまたは手をばたつかせた。

「宮前さんとは最近どうなの?」
「どうなのって……正直付き合いって付き合いはしてない……と思う」
「え? そうなの?」
「うん。時間も合わないし、この前もデートキャンセルされたし。正直言うと付き合ってるのかすらあやふやな感じには思ってる、かな」
「何それ。えー、じゃあ何? はそのイケメン外国人の方に揺らいでるって感じ?」
「そ、そういうわけでもないけど……そもそもあの人とはそういう感じにはならないから」

イルミとはそういう関係ではない。
お互いに利害が一致し、生き残るために一緒に住んでいるだけで”そういう関係”になるわけがない。
それ以外、それ以上でも無い。
イルミにはもっと釣り合う女性がいるし、異国にそんな女性が、ましてや自分なわけがないと思っているは「住むところが見つかるまでうちに居るだけだから」とまるで自分に言い聞かせるように言った。

「でもさぁ、一緒に住んでるんだったら何て言うか、ハプニング……とかないの?」
「ないない。だって……私はそういう対象じゃないだろうから」
「……わかんないよぉ? 男って不思議な生き物だからさ」

不敵な笑みを崩さずに言うは「どうだかねぇ」と返すのが精一杯だった。
そもそもこ暗殺を生業とするイルミとそういう関係になるのが想像出来ないはそれしか言えなかった。


2019.12.13 UP
2020.06.03 加筆修正
2021.07.22 加筆修正