パラダイムシフト・ラブ

20

が出て行った後、イルミは部屋を見渡した。
昨日の夜せっせとカレンダーに書き込んでいた姿を思い出し、イルミは壁にかかっているカレンダーの前に立った。
日付のところが緑色のペンで丸く囲われており時間が記載されていた。
その翌日は赤いペンで丸く囲われており、同じように時間が記載されている。
”ゴミはこの時間までに出してくださいね”と言われたのを思い出し、ふとテレビに映っている時計を見る。

「……あ」

に指定された時間まで後15分程。
机の上に置かれた部屋のスペアキーを手に取り、ゴミを片手に部屋を出た。
鍵についた鈴がチリンと鳴る。
そのままゴミ捨て場に向かおうとしたがふと足を止めた。
脳裏でが”ちょっと出る時でも鍵は絶対かけてください!”と念を押していた姿を思い出す。
仕方なしとばかりにその鍵を鍵穴へと差し込んだ。

エレベーターで降りながら外の集合ゴミ捨て場へと向かう。
主婦連中が談笑をする横を通り過ぎ、昨日教えてもらった通りに緑色のゴミ袋を指定の場所へと放り投げた。
朝のミッションをクリアしたイルミは辺りを見渡した後周辺を歩いてみることにした。
黒髪を靡かせて歩く姿は一目を引いた。
すれ違う人達が振り返るのも気にせず行くあてもなくただただ歩いてみる。
静かな住宅街と犬を散歩する人や玄関の掃除や草木に水やりをしている人々。
見る物全てが自分の居た世界とは違い、平和そのものがそこにあった。
周辺をぐるっと回り、以前寝床として利用した公園へとたどり着いた。
明るい時に来た公園はやっぱり静かで誰もいない。
こんな世界にいつまで居る事になるのだろうか。
本当に帰れるのだろうか。
は指輪を外す協力をしてくれると言っていたが、果たして本当なのだろうか。
小さなため息をつきながらイルミはまたマンションへと戻った。

マンションへ戻るとテレビはすでにニュース番組からワイドショーへと切り替わり笑い声が流れてきた。
が居ない空間は静かで、暇だった。
ふとテレビの横に立てかけてあるノートが気になり、手を伸ばす。
中身は何が書いてあるのか分からなかったが細長く数字が刻まれた感熱紙や、数字の羅列、引き算や単位のマークなどは読み取れた。
ページをめくるとどんどん数字がマイナスされていき、途中からいきなりプラスになる。
恐らくこのノートが意味するのは収支表か何かだろうと理解したとき、イルミはふと考えた。
今までお金に困ったことはないし、自分がどれだけ何に使ったのか気にしたことすらなかった。

「一般人って大変なんだ」

そのノートを静かに戻し、が帰ってくるまでの間やることもないので念で作り出した針の手入れをすることにした。
が居る前では使うことはないかもしれないが、いつ何時帰れるか分からないため手入れをしておいて損はない。
が帰ってくるまでの繋ぎとしては足らないが、今はこれしかやることがない。
作業を開始する前にコーヒーがないことに気がついたイルミは腰を上げてキッチンへと向かった。

*****

会社の時計が定時を指す。
珍しく切りが良い所で今日のタスクが終わり、は日報を送り終わった後にの方へと体を向けた。

はまだやってく?」
「うーん、ちょっと納得出来ないからもうちょっとね。あ、イケメン外人彼氏君によろしくね」
「だから、そんなんじゃないからね」
「別に嫌いじゃないんでしょ? ならワンチャンあるってことじゃん。人生何があるかわっかんないよ?」
「だーからそうならないって。じゃぁお疲れ様でした」
「はーい、お疲れ様でしたぁ。また明日ね」

パソコンとにらめっこしながらチョコ菓子を頬張るに別れを告げ、はオフィスから出た。
今日は先週より早めの帰宅だが、明日も定時で帰れるとは限らない。
オフィスを出た途端、イルミが一人でちゃんと留守番や家事が出来ているかどうか気になってきた。
駅へ向かいながらスマホをいじると一軒の通知が入ってきた。
一瞬だけ見えた送り主の名前に溜息をつきながら返事を簡単に返して駅の改札へと真っ直ぐに進む。

帰宅ラッシュで混み合う電車に揺られながら最寄りの駅で降り、駅に併設されたスーパーで食品を購入する。
大きなレジ袋1つを揺らしながら真っ直ぐに帰路を進む。
先週までは家に帰れば一人で、全ての事を一人でしないといけないが今は待ってる人が家に居る。
実家を出てからは常に一人で居たからか、何だか帰るのが少し不安だった。
こういう時、何て顔をしてドアを開ければ良いのか。
いつの間にかマンションへと着き、エレベーターに乗っていた。
上昇していくエレベーターの揺れを感じているとフロアに到着したことを知らせる電子音で現実に引き戻された。

小さな不安を胸に真っ直ぐに通路を歩き、家のドアの前に立つと心臓が早く動くのを感じた。
今までは無機質な鍵を鍵穴に差し込み、ドアを開けるが今日はドアを開けるだけで良い。
下唇を少しだけ噛みながらゆっくりとドアノブに触れる。
抵抗なく開くドアを開けて中を覗くと真っ暗なキッチンには自室の光が流れ込んでいた。

「た、ただい、ま」

恐る恐る中に入り、後ろ手で静かにドアを閉める。
中を覗き込もうとすると何かが動く音と気配を感じた。
鞄を肩から下ろし、パンプスのストラップを外していると落ち着いたトーンの声で「?」と聞こえた。
束になった黒髪を肩に垂らす男、イルミが自室から出てきてキッチンの明かりをつけた。
相変わらず表情はないが、その顔を見たらどこかホっとした。

「暇すぎて待ちくたびれたよ」
「これでも今日は早い方なんですよ」
「そうなんだ」

そう言ってまた自室へと戻る背中。
しかし、一瞬だけ立ち止まりに振り返る。

「あぁそうだ。お帰り」

それだけ言うと今度こそ自室へと戻っていった。
実家ではいつも聞いていた言葉。
一人暮らしを始めてから言われることなんてなくなったその言葉に懐かしさを覚え、それは次第に嬉しさへと変わった。
もう一度はイルミに聞こえるように「ただいま!」と言った。
返事はなかったが、そこに居る存在に安心したは小さく笑った。


2019.12.15 UP
2020.06.03 加筆修正
2021.07.22 加筆修正