パラダイムシフト・ラブ

22

布団を口元まで被りながらは暗闇の中で「まだ起きてますか?」とソファの背もたれに背中を預けながら腕を組むイルミに問いかけた。
イルミから「うん。何?」と短い返事と呼びかけの内容を問われた。

「お、怒ってます?」
「何に?」
「その、おでこにしたこと……」
「別に。ただの動きはなかなか予想出来ないとは思った」
「す、すみません。やっぱり恥ずかしくて」
「恥じらいがあるうちは解除が出来ないって事が分かったから良いんじゃない?」
「イルミさんは……前向きなんですね。もし私が逆の立場だったら……早々に諦めてると思います。知らない世界にいきなり来て、知らない人と住むことになって、それがキスをしないと死ぬって思ったら、たぶん……何も出来ないと思います」

暗闇の中に溶けるの独り言をイルミは何も言わずに聞いていた。

「イルミさんは、強いですね。解決策を見つけ出そうと、今の生活に慣れようとして、私には絶対できません。私にも、イルミさんみたいな強さがあれば……少しはこのルーチンな日々から抜け出せるんじゃないかって」
「オレの生活だってルーチンみたいなもんだよ。依頼があれば殺す、それだけ。人との関わりなんて皆無だし仕事の邪魔になるぐらいなら必要ないと思ってるぐらいだから」
「……私と出会って、良かったですか?」
「分からない。オレはオレのしたいようにやってるだけだから」
「そう、ですか。では、そろそろ寝ますね。おやすみなさい」
「おやすみ」

寝返りをうち、イルミに背中を向ける様にして寝ると自然と溜息が漏れた。
その溜息が何を意味するために出たのかは、この時のはまだ分からなかった。

*****

いつものようにスマホの目覚まし機能に起こされ、時間に追われていると分かっているのにイルミから「ねぇ時間」と追撃を貰う。
いよいよイルミのお留守番2日目が始まり、パンプスのストラップを止めているとき、ふとは昨日のイルミの言葉を思い出した。

「ずっとお家に居るのもつまらないですよね?」
「うん」
「今日は天気が良いので散策をするのはどうですか? これ、昨日のスペアキーです。ただ、この前の公園の様なことは、しちゃダメですよ」
「しないよ。たぶん」
「たぶんって……。でも、イルミさんを信じてますから。では、いってきます」
「うん。いってらっしゃい」

軽く右手で手を振ってみたが、予想通りイルミはそれに答えることはなかった。
静かにドアを閉め、エレベーターホールへと向かう足を早めた。
いつも通りの通勤路を進み、横断歩道の信号待ちでスマホを取り出した。
3通の通知に溜息を吐きながら、信号が青に変わるのを待った。

いつも通りの道、いつも通りの満員電車、いつも通りの会社の顔ぶれ。
よっぽどのことがない限り何も変わらない日常。
毎日が億劫で、朝起きてメイクをし、電車に揺られて課せられた仕事をこなす。
それが終われば帰宅して、家事に追われ、溜息と共に寝る。
そんな日々がほんの少しずつではあるが変わり始めていることに気がついたのは電車の窓に反射する自分の表情を見た時だった。
1ヶ月前は虚ろな目で猛スピードで通り過ぎていく景色を見ている自分の顔が写っていたが、今はどうだろう。
少しだけ生気のある表情をしている。
それにはイルミの存在が大きく関わっている事が分かったが、反対にイルミはどうだろうか。
あと96日間でなんとかしなくちゃいけない状況で、イルミにとってこの世界で過ごす日々が充実出来るものになるのだろうか。
そんなことを胸には会社の最寄駅で電車から降りた。

朝の定期業務をこなしていると1通の社内メールを受信したことをポップアップが知らせる。
内容は社内ミーティングへの参加要請だった。
参加メンバーの中には週末の誘いを断ったばかりの彼もおり、重たいため息がついて漏れる。
また新しい案件が降ってくる。
そんな予感と共に、多忙な週になりそうな気がしてはカレンダーに目をやった。


2020.03.04 UP
2020.06.04 加筆修正
2021.07.22 加筆修正