パラダイムシフト・ラブ

21

その日の夕飯の後、二人で食器を洗いながらその日のことを話し合った。
今日は何をしたとか、仕事ではこんな事をしているや、家に居て困った事は無かったかなど。
他愛もない話の後は決まってはイルミの事を聞いた。
実際に見ていない事も大きいが、イルミの口から”殺し”の話を聞いても以前ほど怖くはなかった。
恐らく、目の前の人物が人を殺している所が想像出来ないからだろう。

「イルミさんは……小さい時からずっと家業を手伝っているんですか?」
「うん。弟達もやってるけど、まぁ親父達以外に真面目にやってるのはオレだけだろうね」
「弟さん達とは仲良いんですか?」
「うん」
「仲が良いって良いですね。私は一人っ子なので小さい頃は学校から帰ってくると寂しいもんでしたよ」
「ならがオレの所に来たら一気に4人も弟が増えるわけだ」

は思わず持っていたお皿を落としそうになった。
至極当然と言わんばかりの顔をするイルミが空いた手を出す。
その手に洗い終わった皿を渡すと雑に皿を拭く。

「な、何言ってるんですか。イルミさんでも冗談とか……言うんですね」
「オレだって冗談ぐらい言うよ。でも、もしそうなれば面白いのに。弟達もお姉ちゃんがが欲しいって言って気がする。それにに素質があればオレが殺し方を教えてあげるよ」
「グロテスクな映画すら見れない私には無理な話ですよ。じゃ私はお風呂を入れてきますから」

逃げるようにその場から離れ、洗った食器類の片付けを頼む。
お風呂に栓をして湯沸かしのボタンを押すと軽やかなメロディーが流れた。
は日本人であって、仕事もある。
イルミの世界に行けるわけがない。
そもそも行ける保証もない。
イルミはこちらの事を気にせず時々突拍子も無い事を言い出すもんだから驚いてしまう。
ゆっくりと流れ出すお湯を眺めながら心を落ち着かせるためにゆっくりと息を吐くが、いつまでもお風呂場に居る訳にもいかず、はゆっくりとその場を後にした。
キッチンに戻ると、いつもなら椅子を使って高い位置にしまっていた皿もイルミは何の不自由もなく置いていた。
その後ろ姿がまだ家に遊びに来て、ご飯を一緒に食べていた頃の彼氏の背中に重なって見えた。
あの頃はまだ楽しかった。
付き合いだして1年ぐらいは将来はこの人と一緒に住んで、楽しい毎日を送れるんだろうなと考えていたが、今はそんな風に考える事は出来なかった。
滅多に家に来ることも無くなり、家ですることと言えばただ一つだけ。
体を重ね、それが終わるとさようなら。
ふとの言葉が頭を過ぎるが、それを振り払うかのように頭を振るとイルミが「終わったよ」と言う。

「ありがとうございます」
「じゃコーヒーよろしく」
「すっかり気に入ったみたいですね。また帰りに買ってきますね」

安物のスティックコーヒーを取り出し、マグカップに手を伸ばした。
イルミの家は聞く限りではあるが、少なくとも金持ちだ。
そんなお坊ちゃんの舌を満足させられる物ではないと思うが、本人からは一言も不満はなく、むしろ好んで飲んでいるように見えた。
お財布には少し痛いが、もう少し家事を頑張れたら少し高い代物を用意してみようとか思いポットに電源を入れた。

*****

一人で居る時はお風呂が沸くまでの時間が長く感じたが、イルミとテレビを見ながらポツリポツリと会話をしているとあっという間だった。
先にイルミが入り、次にが入る。
いくらか落ち着いてお風呂にも入れるようになり、湯船に肩まで浸かりながらは大きな溜息を吐いた。
この生活がいつまで続くのだろうか。
本当にの考えで正しいのだろうか。
目を瞑るといろんな不安が押し寄せてくる。
イルミもこの家に一人で居た時はこんな気持ちだったのだろうか。
早く元居た国に戻してあげるためにも、が覚悟を決めなくてはならない。
ちゃんと朝のゴミ出しも出来たようで、言った通りのことはしないといけない。
気持ちを引き締めるように顔を洗い、は風呂場から出た。

濡れた髪の毛を乾かしてから自室へと戻るとイルミが顔を上げる。
少し湿った黒髪から覗く大きな瞳で見つめられるとドキっとした。
なんとなく一緒に座るのが気まずくてクッションの上に座りながらニュース番組に目を向ける。
毎日毎日物騒な話ばかりが流れるニュースには飽き飽きしていたが、それをイルミは興味深そうに見ていた。
仕事柄気になろうのだろうか。

「素人がやれば足が付くんだからこういうのはプロに頼めば良いのに」
「頼むって、イルミさんみたいな人にですか?」
「うん。この程度なら楽なもんだよ」
「……イルミさんも結構頼まれるんですか?」
「うん。裏の世界の案件ばっかりだけどね」
「裏の、世界……」

がやる仕事が表の世界なら、イルミが行う仕事は裏の世界。
政治や金などが動く世界でイルミは仕事をしている。
そう考えるとやっぱり住む世界が違うんだと思わされる。
ぼんやりしながらテレビを見ているとイルミが静かにテーブルにマグカップを置いた。

「さっきはオレに”ありがとう”って言ったよね」
「え、えぇ」
「オレちゃんとゴミも出したよ」
「ありがとうございます」
「オレは言葉じゃなくて報酬が欲しいんだけど」

イルミの方を向くと大きな瞳が見つめてくる。
感情を映さない表情を見ていると途端に体が熱くなってきた。
今このタイミングでそれを要求するのか、と思ったが当の本人は待っているようだった。

「キ、キス……ですよね」
「分かってるなら早くしてよ」
「そう急かさないでくださいよ」
「まさかしないつもりだったの?」
「ち、違います! 違いますけど、その……心の準備というものが、ですね……」

はゆっくりと立ち上がり、イルミの前に立つ。
グリグリとしてた大きな瞳を見下ろしながら「目を閉じてください」と伝える。
本人は少し渋る様子を見せたが小さな溜息をつきながら「分かった」と大人しく目を閉じた。
は胸に手を当てながらこれからする行為に眉を寄せた。
少しだけ震える手をイルミの肩に置き、自分に”出来る!”と言い聞かせる。
恥ずかしがっているようではダメ。
海外の人たちは挨拶がわりにキスをしているではないか。
慣れない世界で一生懸命やってくれたイルミに感謝の気持ちをキスで伝えるだけ。
そう思いながらはゆっくりと顔を寄せた。
そしてそっと唇を触れさせた。

「は?」
「な、何も口じゃないとダメとは書いてなかったので! で、ではお、おやすみなさい!」

口付けを落とした場所はイルミのおでこだった。


2019.12.17 UP
2020.06.04 加筆修正
2021.07.22 加筆修正