パラダイムシフト・ラブ

24

チラホラと席が埋まり、店内は賑やかになったが気にならない程度の賑わいを見せていた。
「それは酒じゃないよ」と横からお節介を言われながらもはお気に入りのカルーアミルクを飲み、新規の案件を早々に片付ける事が出来た事を二人に報告した。
マスターの話によると、ここ最近顔を出さないが心配だったようで、久しぶりに連絡を貰った時は安心したらしい。
しかし、話しを聞けば男も連れてくるということでどんな人物か楽しみにしていたそうだ。

「忙しかったのは本当ですよ。でも、イルミさんが居るおかげで今は楽しいです」
「そりゃ良かった。ってことはあの上司さんとは別れて今はイルミさんと?」
「いや……っていうか、イルミさんとはそういう関係じゃなくてですね……って電話でも話したじゃないですか!」
「あぁそうだったそうだった。おや? もしかしてイルミさんは菜食主義かい? サラダの方が良かったかな」

先ほどから出されたつまみはしか食べず、その間イルミは代わる代わる酒を頼み、それを飲むだけだった。
手をつけない様子が気になったマスターがそれとなく聞くとイルミは表情を変えずに「こっちではの料理しか食べないから」と答えた。
その答えには飲んでいたカルーアミルクを吹き出しそうになった。

「ちょ、イルミさん!?」
「それにもともと外ではあんまり食べないし」
「はっはっは! こりゃ良い殺し文句だ!」
「別に私……何もしてないけど……」
「良い男じゃないか。さっさとこっちにしちまいなよ」
「……そんな簡単に言わないでくださいよぉ。って違いますから」

簡単にそんな関係にはなれない。
万が一そうなったとして、未来はあるのだろうか。
もし、指輪の念が解除出来たとしてその後どうなる。
イルミは向こうの世界に戻るが、自分はどうなる。
こっちの世界に残るのは当然自分で、叶う恋なわけがない。
この生活がいつまで続くか分からない以上、無責任な事はしたくない。
しかし、実際のところイルミはこの件についてどう思っているのか気になり、横目で盗み見るが相変わらずの無表情だった。

「イルミさんはどうだい? とは上手くいってるかな?」
「どうなんだろう?」
「わ、私に聞かないでください。最初こそは色々あったけど……今は……普通?」
「普通みたい」
「いやぁ面白いね、二人とも」

飲んで食べて話して笑って、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
最後の一杯を飲み終え、が財布を取り出そうとした所でマスターはそれを制止した。
キョトンとした顔でマスターを見ると、小さな声で「今日は良いよ」と言う。
他の人が居る手前そういう訳にもいかず、が慌てるとマスターは小さく笑った。

「久しぶりに会えたのと、面白い彼にも会えたからね。元気で良かったよ」
「でも……せ、せめてお酒代だけでも」
「なら3000円で」
「そんな……」
「次来た時は”良い知らせ”を待ってるよ。それでチャラだ」
「冗談言わないでくださいよ。次来る時も一緒ですよ」
「そりゃ残念。彼もまた来てくれ。今度は君の話も聞かせて欲しいからさ。こっちに来る前はどんな事してたのか興味あるよ」
「ただのこ」
「さて、帰りましょう!」

危ないことを口走りそうだったイルミの腕を掴み、お題をカウンターに置いて半ば強引にイルミを引っ張って店を出た。
階段を登り、開けた道路にはチラホラと人が居た。
花の金曜日で日頃の疲れを取るために羽を伸ばす人は多い。
大通りを渡り、いつもの帰路である横断歩道の前で二人が並んで立つ。
ふとそこで、が店から今までイルミの腕を掴んでいたのに気がつき慌てて手を離した。

「あ、ごめんなさい」
「良いよ」
「イ、イルミさん……最後マスターになんて言うつもりだったんですか? まさか本当に……”殺し屋”って……」
「”公務員の雑用”だけど」
「は? え? 公務員……?」
「うん。家業を偽る時は適当に公務員の雑用って言ってるから。どの道そういう奴らの仕事ばかりだからあながち間違ってないんだよ」
「そ、そうなんですね……良かった」
「オレだって人を選ぶから」

「青だよ」と言ってイルミは横断歩道を渡り出した。
その背中をは追いかける様についていく。
まるでどっちの家に帰るのかわからないぐらいに自然に二人は歩き出した。

横断歩道を渡り終え、二人が出会った路地の入り口が見えてきた。
あれから約1週間が過ぎる。
あの雨の日、その狭い路地でイルミと出会い自分の命が尽きるかもしれない運命を聞かされ慌てた。
そんなことが昔のように感じられるぐらい、イルミはの生活に馴染んでいたことに気づかされた。
ぼんやりとしながら歩いていると、横に並んで歩いていると腰を力強く引かれた。

「キャッ!」

引いた相手はもちろんイルミで、顔を上げれば「引かれたかった?」と聞かれた。
すぐに横を通り過ぎた自転車の存在にやっと気がついた。
どうやら自転車のベルの音に気がつかなかったようだ。
少し強引な力強さに男を感じ、は少しだけ俯きながら小さな声で「ありがとうございます」と零した。

*****

お風呂上がりは決まってコーヒーと決まっている。
二人して肩にタオルをかけ、今日のニュースを見る。

「そういえば、イルミさんは本当に酔わないし、顔にも出ないんですね」
「うん。はよくあんな甘ったるい飲み物で顔が赤くなれるね」
「……ど、どうせお子ちゃまですよ」
「オレのは違ったけどのは度数低めに作ってたみたいだから良い腕持ってると思う」

それとなく部屋に沈黙が訪れる。
ニュース番組もそろそろ終わりを迎えそうな時、お酒の効果もあってかまぶたが徐々に降りてくる。
重たくなる頭が船を漕ぎ始め、イルミの声で目を覚ます。

「寝たら?」
「うーん……でも、髪の毛……」

またそこでまぶたが落ちてきた。
イルミが動く気配を感じながら、テレビコマーシャルに耳を傾け、少しずつ意識が遠のいた。
暗い海の中を漂うようなふわふわした気持ちが心地よかった。
の体は自然と倒れ、テーブルに突っぷすと意識が途切れるのは早かった。

ふとした時、熱風を後頭部に感じて目を覚ました。
顔を上げると小さな「あ」という声が聞こえた。

「起きちゃった」
「……イルミさん……何してるんですか」
「何って、乾かしてる」

当たり前なことを聞くな、という顔をしているように見えた。
左手に握られているドライヤーからはゴーゴーと熱風が出ている。
少し湿っている髪の毛に触れ、イルミが乾かそうとしてくれていたのを理解して思わず笑ってしまった。
むず痒い気持ちと共にこれまで見てきたイルミからは想像出来ないような行動に”ありがとう”と言おうとした時、熱風が顔に直撃する。

「ちょっ、と! 何するんですか!」
「なんとなく」
「あ、熱い、です!」
「だろうね。だったら早く後ろ向いて」
「ど、どうしたんですか急に!?」
「仕事の一貫だから」

どうにも乾かす気でいるらしいイルミには笑いながら後ろを向いた。
テレビはすでに深夜の歌番組に変わっており、知らないアイドルが一生懸命笑顔を振りまいている。
ドライヤーの音であまり音楽は聞こえなかったが、不思議と心地よかった。
時々引っ張られるのを感じながら大人しく座っているとまた眠くなってきてしまった。
人に髪の毛をいじられるのは何ヶ月ぶりだろうか。
久しぶりに感じる人の手には笑みを浮かべながら髪の毛が乾くまでの間を楽しんだ。


2020.03.05 UP
2020.06.04 加筆修正
2021.07.22 加筆修正