パラダイムシフト・ラブ

25

週末は買い物や洗濯などで全てが潰れた。
それでも他愛もない話で退屈しない時間が過ぎていったが、また明日から仕事かと思うと溜息が漏れる。
イルミが家に来てから早いもので1週間が過ぎ、激務が始まった火曜日から今日までイルミはキスを要求してはこなかった。
恐らくのペースに合わせてくれているのかもしれない。
結局相手から言われないと発展しない性格と、自分から動く勇気がなかなか湧かない自分の弱い部分に表情をふと歪ませた。
それに気がついたのかイルミは一緒に借りてきたレンタルビデオを見ながら「何かあったの」と問う。
その一言ではイルミは人を見ていないようでなかなか見ていることに気がついた。

「いえ、何でもないんですけど……」
「何でもないって顔じゃないけど」
「私って、本当にイルミさんの……運命の人なんでしょうか」
「急だね」

イルミに向かい合い、唇を噛み締めながら見つめる。
それまでテレビを見ていた黒い瞳がへと向けられると胸が痛くなった。
感情が読み取れない表情が少し怖くて、の手に無意識に力が入る。

「なんていうか、私の生活だけ豊かっていうんですかね。楽しいものになっててイルミさんはどうなのかなって」
「まぁ暇だよね。オレが出来ることは何もないから」
「そう、ですよね……だから本当に私で合ってるのかなって、思っちゃったんです」
「ふーん」

純粋な気持ちだった。
もしイルミと出会ってなかったらと思うと少しだけ怖くなった。
誰かが側に居てくれる生活がこんなにも精神的に安心出来るものなのだと知って複雑な感情に飲み込まれそうだった。

「オレはで合ってると思う」
「へ……そうですか?」
「最初は馬鹿でとんだハズレを引いたなとは思ったけど、案外タフだし環境に慣れるのは早いみたいだから」
「そう、ですかねぇ」
「普通暗殺を家業にしてる奴なんか信じないでしょ。最初は殺すって言葉にビクビクしてたみたいけど、今は割と平気そうだし」
「実際に見ていないからかもしれないですよ……?」
「見ていなくても、家業もそうだけどオレ自身を否定しないんだから何回か見たら慣れるよ」

はどこからその自信が湧いて出てくるのかと言いたくなったが、最初ほど残酷な言葉に怯えることは無くなっていた。
それがイルミの言う”環境に慣れる”と言う事なのか、と考えているとイルミはコーヒーを一口啜った。

「この指輪のルールが本当なら今のオレはに生かされてるようなもんだから。無理強いしたって帰れないって事も分かってるし」

そう言ってイルミは静かにマグカップをテーブルに戻した。
確かに、今のイルミの命を握っているのはなのかもしれない。
月曜日のキスを最後にイルミからアクションがなかった理由を知ったは覚悟を決めたようにイルミを見つめた。

「なら、今日……た、試して……みませんか?」
「今日は仕事してないよ?」
「今日は……というか、この1週間はずっと遅くて、不憫でしたし、仕事で上手くいったのはイルミさんの存在のおかげですから」
「そう。オレは別に良いけど、がそれで良いなら良いんじゃない」

最後に「するのはだから」と何とも煮え切らないイルミの言葉に心に影が宿る。
早く元の世界に帰してあげるにはからアクションを起こすしかないが、どうにもマスターの言葉が心に引っかかる。
はゆっくりと息を吸い込み、自分の気持ちを落ち着かせるように吐いた。

「試して、みましょう」
「分かった。いつでも良いよ」
「そ、そう言われるとしにくいんですけど……」

どうにも落ち着かないでいるとイルミは黙ったままソファの定位置から少しずれてが座れるようにスペースを空ける。
そこに腰掛け、いざイルミの顔を見ると変な感じがした。
イルミと出会ってから強引な時もあったが、何回か触れた唇から視線が外せなかった。
自分の気持ちの変化に若干つていけてないことを感じながらも、これも可能性を探るための一環であると言い聞かせ、イルミへと視線を移した。
決してやましい気持ちなどないのに、胸がちくりと痛む。

「い、良いですか?」
「いつでも」
「い、行きます!」
「そんな意気込むことなの?」
「気合入れです! イルミさんを元の世界に帰すための自分への喝です」
「あっそう」

地蔵のように動かないイルミに少しだけ近づき、力強く目を瞑ってその整った唇に触れた。
特に何の変化もなく、今回も失敗に終わったと分かるとはゆっくりと目を開けた。
変わらずに大きく開いている瞳にまさかと思った。

「あ、あれ……イルミさん、目……閉じてくれました?」
「閉じるわけないだろ」
「え! は、何でですか!?」
「何でって、閉じてって言われてないし別に良いかなって」

その言葉にみるみる顔が火照ってくるのを感じ、は思わずイルミから視線を逸らした。
今更なの反応にイルミはわからないと言った感じで首を傾げながら「?」と呼びかける。

「こ、今回も失敗でしたね! ま、まだ感謝の気持ちが足りないって事ですかね!?」
「ってことはオレはもっと仕事をしないといけないってこと?」
「わ、分かりませんが……で、でもまた一つ経験値を積みましたね! イルミさんは早く帰らないといけないのに……また色々探していきましょう!」
「まぁそうだけど、どうしたの? 何だか変っていうか、気持ち悪い」

イルミの目が少しだけ鋭くなる。
まるでその目で見られると心を見透かされているような気になるので、はすぐに立ち上がり「何でもないですよ」と言うと買ってきた布団をクローゼットから取り出してイルミに渡した。
動悸が治まらず、これ以上話していると危険な気がしたはさっさとベッドの布団をかぶった。
唐突なの行動に何か思う事があるようだったがイルミは何も問わずに「おやすみ」とだけ言った。
同じようにも「おやすみなさい」と返し、部屋の電気を消した。

布団に入り、暗闇の中で目を開けていると今日の事やこれまでの事を思い出した。
イルミが来てから生活は賑やかなものに変わり、寂しいと思う事が少なくなった。
前はルーチンでしかデートに行かない彼にやきもきしていたが、今はそんなことを思わないし、不思議と相手の事を考えなくなっていた。
失礼な事ではあるが、イルミと彼を比べてしまっている自分が居た。
まだまだ知らない事は多いし、素直じゃないところもあるが、堂々としている姿が素敵に見えた。
唇が触れ、自分のことを見ていたことを知って咄嗟に”変な顔はしていなかっただろうか”と考えてしまい、今まで抱かなかった気持ちに戸惑ってしまう。
今の彼氏とは触れ合いや会話がないからこそ、きっと近くの人が素敵に見えてしまう現象なのだろう、と自分に言い聞かせては強引に目を瞑った。


2020.03.06 UP
2020.06.04 加筆修正
2021.07.22 加筆修正