パラダイムシフト・ラブ2

1

は初めて感じる威圧感に息が詰まりそうだった。
営業時代に受けた上司の詰めよりも息苦しく、身体中から変な汗が吹き溢れた。
きちんと正座をし、正面にいる銀色のウェーブがかかった威厳のある男と独特な髭を生やす老人に見つめられは一刻も早くこの場から逃げ出したい思いだった。

「もう一度聞くが」
「……っはい!」
「本当に熊に育てられたのか」
「えっと、それは……」

本当は嘘だと分かっているにも関わらず本人から言質を取りたいがための質問は選択肢など無いように聞こえた。
も本当の事が言えるならどんなに楽か。
しかし、それはもしかしたらイルミの優しさを裏切る事になるかもしれないと感じたは唇を噛み締めた。
だがそうは言っても初対面で、ましてや好きな人の親ともなれば嘘はつきたくなかった。

「その……」
「お嬢さん。この部屋は防音じゃ。外にいるであろうイルミには一切聞こえんよ。そもそもわしらはこんな可愛らしい格好をしたべっぴんさんが熊に育てられたなんて信じちゃおらんよ」
「ほ、本当……ですか?」
「あぁ。イルミは嘘をつくのが致命的に下手だからな。だから素直に話してくれて構わない」

もし今この場で素直に本当の事を言わなかったら、後々どうなってしまうのか不安になった。
暗殺一家に居るという事は選択肢をミスれば一瞬で消し炭されてしまうかもしれない恐怖が頭をよぎる。
イルミを取るか、その家族を取るか。
本来なら天秤にかけて良い物ではないが、かけざるを得なかった。

そもそもいきなり父親と祖父と対面することになった原因は約3時間前に遡る。

*****

自分が生きてきた世界を捨ててイルミが住む世界に来たは自分の知らない土地がこんなにも心細いとは思わなかった。
今何処に居るのかも分からない状態で、イルミも最初はそんな感じだったのかと思うと改めて精神的にも強い人だと感心した。
冷たい薄暗い廊下を歩きながら横に並ぶイルミを見上げているとイルミはヒソカと別れる時に投げられた携帯電話のようなもので誰かに電話をかけはじめた。

「ごめん、オレ。ちょっとまぁ色々あってさ、今終わったから帰る。うん。1便用意しておいて。そう、よろしく」
そう言うとイルミは早々に電話を切り、を見ながら「1時間ぐらいで準備出来るってさ」と主語が完全に抜けた状態で話された。
1便ということは何かの移動手段が確保出来たのだろうと、しかし”準備”というのはどういうことだろうか。

「あ、あの……準備って、何のですか?」
「ん? 飛行船」
「え? ひ、飛行、船……え!? 飛行機って事ですか?」
「まぁそれに近いかな。って言うか皆持ってるから」
「いや、それは絶対嘘ですよね!?」

イルミのお坊ちゃんな発言を初めて耳にし、は開いた口が塞がらなかった。
さも当然のように言うイルミは「電車だっけ? あれは時間かかって面倒臭いから。それともそっちが良かった?」と首を傾げるのに対しては首を横に数回振った。
日本に居る時に金持ちなのは聞いていたがまさか自家用の飛行船まで所有出来る程の財力があるとは思っておらず、スケールの大きさに言葉を失った。
一体どんな家族なのだろうか。
新卒時代、落ち続けた面接で藁にもすがる思いで受けた会社からの合否の連絡を待つ時みたいな嫌なモヤモヤが心に広がる。
よく考えれば部屋着のままこちらの世界に飛ばされたは外をで歩くだけであればまだ良いが、人様の家にご挨拶行くにしてはラフすぎた。

「こ、こんな格好で……大丈夫ですか?」
「あ、そっか。服持ってきてないんだった」

今にも崩れそうな廊下の真ん中で立ち止まったイルミはポケットから携帯を取り出すと小さな声で「19時か」と呟いた。
その後の行動は早かった。
イルミがの腰に手を回すと軽々と横抱きに抱えた。

「ちょっイルミさん!?」
「此処から街までちょっと距離あるから、抱えて行くよ」
「か、かかか抱えて!? わ、私歩けますよ!」
「こっちの方が早いから」

一つ空いてる部屋に入るとそのまま窓へと向かいイルミは窓枠に足をかける。

「ちょっと……ま、まさか此処から……」
「うん。あの向かいのビルに飛んであっちの木を伝って街まで行こうかな」

思わず下を見ると地面が遠く、血の気が引くような思いがして心の準備をする前に浮遊感がの身体を襲った。

「い、いやぁああああああ!!!!」
「大袈裟すぎ」

体感的には数秒のことだったが、身体に感じた浮遊感はとても長く感じた。
命綱もなしに落下して見える光景は全て一瞬で、その後強い衝撃を受けた。
もうどうにでもなれという気持ちではイルミの首に回した腕に力を込め、肩口に顔を押し付ける。
眼鏡の鼻当てが食い込んで痛かったがそんな痛みよりも浮遊感への恐怖の方が強かった。
木々の間を伝って移動しているのが聞こえるがその音よりもの叫び声の方が大きく木霊する。
どれだけ叫んだか分からないが、どこか知らない路地に着いたらしくイルミがをゆっくりと地面に降ろした。

「ね? 早いでしょ」

身体から力が抜けて地面に座り込んでしまったは涙目で平然としているイルミを見上げた。
まるで口から棒を突っ込まれて胃の中を無理やりかき混ぜられたような気分で、何が何だか理解出来なかった。

「い、いつも……こんな移動の仕方、なんですか?」
「うん」
「ジェットコースター以上の恐怖を、味わいました……」
「すぐ慣れるから」

イルミに手を引っ張ってもらって立つとその手を引かれるがまま路地を進んだ。
いくつかの曲がり角を曲がって進んで行くと賑やかなショップがずらりと並ぶ大通りに出た。
右を見ても左を見ても派手な看板を掲げた店がいくつも並び、人々が行き交っている。
よくある若者の人気スポットな雰囲気はどこか懐かしさがあった。
その中でもの目を引いたのは使われている文字だった。
改めて今自分が足で立っている世界が日本でないということを思い知らされイルミを見上げた。

「本当にあの記号みたいなのが文字なんですね」
「うん。オレからしたらニホンゴの方が記号みたいだったけど」
「文化は違っても感じる印象は同じなんですね」
「そうみたいだね。さ、行くよ」

腕を引かれるまま行き交う人々に紛れると次第に気持ちが落ち着いてきた。
文字は読めないがショーウィンドウに飾られる鞄や洋服は目を引くものばかりで徐々に好奇心が湧いてきた。
お店の雰囲気はそこまで日本の物とは変わらない印象でなんだかホっとした。
どんどん歩いていくイルミの背中を見つめながら「イルミさんも、こういう所に来るんですね」と聞くとイルミは「2回目ぐらいかな」と答えた。
その後、イルミは急に立ち止まり危うくその背中には顔をぶつけるところだった。

「……危ないですよ」
「この店で良い?」

横を向いて止まるイルミが指差す方を見ると若者向けのファストファッションを取り扱っているような店だった。
ショーウインドウに飾れた白のワンピースで裾に花柄の刺繍が施された物が可愛くて見惚れていると、イルミは返事の遅いの背中を無理やり押した。
まだ何も答えていないは焦った表情を見せるがお構いなしに入店し、イルミは早々に店員を呼びつけた。

「お客様どうされました?」
「とりあえずあの棚からあそこの棚まで。で、一着は着て帰るからよろしく」

ポンとイルミの手がの頭に置かれた。
と店員の目が点になり、イルミを見つめる。

「へ……?」
は着て帰りたいやつ選んで」
「っていうか今……あの棚からあの棚までって……言いませんでした?」

は震える指でイルミと同じように店の端から端までを指差した。

「うん。もそうやってオレに買っただろ?」
「いや、そんな買い方……してませんよ!」
「そうだっけ? まぁ良いや。とりあえず早く選んで」

思わず置かれたイルミの手を払い退けた。

「イルミさん! 私そんなにいらないです!」
「……じゃああそこからあそこまでは?」

なかなか折れないイルミは少し眉間に皺を寄せてからもう一度棚を指差した。
しかしその妥協案はしっかりとに却下される。

「それも多いです! 10着で十分な程着まわし出来ますから!」
「……分かった。ねぇ。似合いそうなの10着選んでくれない?」

思わぬ上客に呆気にとられていた店員はフリーズしており、イルミに「聞いてる?」と言われて現実に戻されたのか「は、はい!」と返事をした。
「選んだら試着室に持ってきてね」と念を押すのを忘れずにイルミはさっさと店内の奥へと一直線に向かう。
困惑している店員に軽く頭を下げたもその背中を追いかけた。


2020.08.20 UP
2021.07.28 加筆修正