パラダイムシフト・ラブ

2

土砂降りの雨の中、横断歩道の信号を待ちをしながらは水玉のビニール傘を打ち付ける雨音に耳を済ませていた。
眼の前を通り過ぎていく車。
周りには同じように信号を待つ者は誰もない。
手持ち無沙汰な右手が無意味にスマートフォンへと伸び、ディスプレイに映った時刻を見ながら「夕飯どうしよう」と一人零した。
通り過ぎようとしていた1台の車がスピードを落とし、横断歩道の前で止まる気配にゆっくりと顔を上げると真っ赤だった人間のマークが青緑色へと静かに変わる。

今朝の天気予報では終日晴れの予報だったが、結果は大外れ。
足元はすぐに濡れ、朝はキレイだったエナメルのパンプスが今では泥水で汚れている。
ここまで予報が外れるのは珍しい事で、鞄に仕舞い込んだ活躍しない折りたたみ傘にこの時ばかりは感謝していた。
は肩に掛けていた鞄を掛け直し、水溜りを避けながら横断歩道を渡り始めた。
向こう側にたどり着くと先程まで止まっていた車がゆっくりと走り出す。
溜まっているメールをチェックしながら定食屋、花屋を通り過ぎ、行きつけのコンビニの前を通り過ぎた。
普段はいつも通りの明るい大道りを通るが、今日の雨は何だか激しく、早く家に帰りたい気持ちが勝り近道となる路地に目をやった。

「今日はこっち通ろうかな」

メインの大通りと比べたらその路地は街灯が少なく、不気味に見える。
既にいつもの帰宅時間は過ぎており、シャワーに入りたい気持ちと濡れる足元の事を考えれば多少暗くとも近道を通った方が良いかもしれない、と思った。
細い路地に足を踏み入れ、転ばないようにと足元に注意しながら歩いていると何かに傘がぶつかった。

「……っうわ」

は恐る恐る顔をゆっくりと上げると、傘にぶつかったのが人だと分かった。
3歩ほど後退りしながらゆっくりとその人物を見上げると、その人は傘もささずに立ち尽くしている。
暗くてあまりよく見えないが、長髪の背が高い人物は不思議な雰囲気を纏っていた。
そのシルエットから最初は女性かと思った。
しかし、よく見れば広い肩幅と広い背中から男性にぶつかった事を理解したはすぐに「ごめんなさい」と謝り、軽く頭を下げる。
男はぶつかられたことに最初は気がつかなかったようで、の声を聞いてやっと背後に人がいることを察し、ゆっくりと振り返った。
表情は伺えなかったが、見下ろしてくる大きな黒目が強烈に印象的だった。

「す、すみませんでした」
「へぇ。入ってこれたんだ」

抑揚のない男の声にの肩が跳ねた。
男はゆっくりと体を向き直し、感情が読めない表情で「もしかして同業者?」と聞いてきた。
急な質問に答えられるずにいると男は一歩だけに近づいた。
自然と傘を握る持ち手に力が入り、一気に口の中が乾く。
もしかしたら危険な人なのかもしれない。
そう思ったら蛇に睨まれた蛙のように足が動かなくなり、目が外らせなくなった。

「あ、あの……ぶつかってご、ごめんなさい」
「うーん。同業者ではなさそうだけど……入ってこれたついでに聞きたいんだけど此処ってどこ?」
「えと、ど、ど、何処と……言いますと?」
「パドキアではないの?」
「ぱ、ぱど……ごめんなさい、解らない……です」
「パドキアじゃないなら此処はどこ?」
「えっと、日本……ですけど」
「ニホン?」

会話のキャッチボールが成り立たないことに男は首を傾げ、顎に手を添えて何かを考えるような仕草をする。
それはも同じで、頭の中が混乱しながらも目の前の男を観察してみた。
ファッションセンスが日本のソレとは大分ずれていることと、聞いたことのない地名。
そして、ずぶ濡れのままでも気にしていない素振りに違和感を覚えた。
関わってはいけない危険な匂いを含んだ人物。
そうの中で結論が出た。

「あ、で、では私はこれで」

早くこの場から立ち去った方が良いと感じたは考え込んでいる男から少しでも距離を取るため後ずさった。
「此処をまっすぐ通れば大通りに出られますよ」と付け加えてからもう一度頭を下げ、さっさと路地から出ようと顔をあげると、男は「ねぇ」と言う。

「何処行くの」
「ど、何処って……えっと……」
「お前はヒソカが言うアレじゃないの?」
「は? アレ?」
「いまいち噛み合わないなぁ。でも違うって言うなら」

男はまた一歩に近づき、いつのまに出したのか大きな飴玉のような装飾がついた針のような物を持っていた。
不気味に見えるそれに思わずの視線が泳ぐ。

「あ、あの……」
「色々言われるのも面倒臭いから殺しておこうかな」
「は!? えっ!?」

一歩近く男に対し、は一歩後ずさる。

「オレの殺気に耐えて此処まで来たんだからもしかしたらって思ったけど……違うみたいだし」
「な、なんのことですか!? や、止めてください! 来ないで!」

その場から逃げ出そうとした瞬間、一瞬だけ針を持つ手が動いたような気がした。
息を飲んだ頃には五本の針が水溜りを作るアスファルトに突き刺さっており、もし下手に足を動かしていたら刺さっていたかもしれなかった。
その事実に冷や汗が出始め、また一歩近いてくる男に膝が震え出した。
息を吸おうにも上手く呼吸が出来ず、言葉にならない言葉が口から漏れ、降り注がれる威圧感には耐えられず地面にしゃがみこんだ。

「あ、あの、あの……殺さないで……ください!」
「念も使えないんだ」
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

頭抱えながら目を瞑り、何度も何度も謝った。
雨音と共に男が近づいてくる気配に体を縮こませた。

「困ったなぁ。なら何で入ってこれたの?」
「あの、あの……私は……ただ、家に帰りたくてその……」
「よし。ならこうしよう」

降ってきた男の言葉は意外なものだった。

「見逃す代わりで良いんだけど」
「あ、は、は、はい」
「オレ、シャワー浴びたいんだよね」

男も同じようにしゃがみ、髪の毛を耳にかけながらアスファルトに刺さった針を一本ずつ回収していく。
突拍子もない発言には困惑した。
”お腹が空いた”みたいに簡単に言う男に困惑の眼差しを向けると、男は小さく首を傾げながら「それとも今此処で死ぬ?」と自然に脅してくる。
力なく首だけを横に振ると男はこう言った。

「なら決まりだね。あー良かった。これで寝床の心配は無さそうだ」

これが男との出会いだった。


2019.10.18 UP
2020.06.02 加筆修正
2021.07.22 加筆修正