パラダイムシフト・ラブ

3

激しい雨が降る中、マンションに向かう道中ではお互い言葉を交わさずに歩いていた。
傘を持たない男が後ろからついてくる様はさぞ不気味で、通り過ぎる通行人達の視線が容赦なく達に向けられる。
持ち手を握りしめながらどうしてこうなってしまったのかと考えながら一度振り返ると、ずぶ濡れに濡れても表情一つ変えない男はを真っ直ぐに見ていた。

「ヒェっ!」

は小さな悲鳴を漏らしてまた前を向き直った。
この男の目的は一体何なのか。
何も解らずに他人を家に招き入れるなんて馬鹿げている、とは思ったものの脳裏に焼き付いたアスファルトに突き刺さった針と威圧的な目が離れなかった。

無言のままの空気に耐えきれず、は勇気を出して振り返えると目の前のマンションを指差した。
「此処の3階です」と案内すると男は一言「ふーん」とだけ言う。
ずぶ濡れの男の足元を見ながら傘を閉じ、タイミングよく1階で止まっていたエレベーターへと乗り込んだ。
いつもなら一瞬で到着する3階が今日だけはやけに遅く感じた。
エレベーターに乗っている間、は何度か男を見ると無言のまま立っていた男が「さっきから何?」と話しかけてきた。

「いや、別に……」
「気になることがあるなら言ってくれる? じゃないとオレも見られるの気になるから」
「す、すみません。何でも……ありません」
「ふーん」

チンと鳴るエレベーターの到着音が響いた。
エレベーターを降り、マンション内にのヒールの音だけが響く。
突き当たりまで真っ直ぐに進み、重たいため息をつきながらは部屋の前で立ち止まった。
鞄の中から何個もキーホルダーがついた部屋の鍵を取り出し、不安に押し潰されそうになりながら鍵を鍵穴に差し込み半回転させると、鈍い音を立てて解鍵を知らせる。
マンションのドアを開けて中に通すと男は開口一番にこう言った。

「へぇ。ウチの独房より狭いね。一般人ってこんな所に住んでるんだ」
「独房って……あ、靴は此処で、脱いでください」
「脱がないといけないの?」
「すみません……そちらの文化は知りませんが、日本はそういう文化なんです」
「面倒臭い文化だなぁニホンって」

文句は言うがの言葉に従って男は靴を脱ぎ始める。
失礼なことを平気で言うし、常識もなさそうな男を本当に家に招いて良かったのかと考えながらはドアを静かに閉めた。
しかし、もしシャワーを貸さなければ、あの場で死んでいたかもしれない事を思うとこれで良かったんだと思うことにした。
屈んだ姿を見ながらふと改めて疑問に思うことがあった。
一体どこの国の人なのか。
なぜ言葉が通じるのか。

「日本語は話せるんですね」
「あ、そう言われてみればそうだね。っていうかニホンゴって言うの?」

男は少しだけ顔を上げるとを見ながら大きな目を数回瞬きさせた。
よく見ればその辺の人よりも整っている顔やスタイルの良さには気がつく。
靴を脱ぎ終わった男は垂れ下がった髪を避けながら「オレは此処に居れば良いの?」と聞いてくる。
流石にずぶ濡れのまま部屋を歩かれてはたまったもんじゃない。

「あ、少しだけ……待っててもらえますか?」
「うん」

は男を玄関に残して奥の自室へと入ると鞄をベッドに放り投げ、クローゼットの前に座り込んだ。
何の躊躇いもなくクローゼットの中から濡れた服の代わりを取り出そうとしている自分に気がつき、クローゼットのドアから手を離した。

「待って待って……なんか……馴染んでない……?」

自分に問いかけるような独り言が漏れる。
先程までは恐怖に震えていたが、あれ以来危害を加えてくるような脅しの言葉も行動もない。
気を許したわけではないが、少なからず自分の中で男に対する警戒心が少し薄れているのに今更気がついた。
少し考えた挙句、出た答えはとりあえず言われた通りにお風呂を貸し、その後は帰ってもらうということだった。
は大きく息を吸い込み、意を決してクローゼットのドアを開けた。

自分の衣装ケースの隣に置かれた小さな3段重ねの衣装ケースに手を伸ばした。
綺麗に折りたたまれた衣類を見るたび、少しだけ胸が痛んだが背に腹は変えられない。
中から白いTシャツと黒のスウェットのズボンと封が切られていない下着を手に取り部屋を出た。

「これ……サイズが合うかわかりませんが、一応着替えです。あ、お風呂はこっちです」

引っ張りだしてきた寝巻きセットを男に渡すと、男は少し驚いた表情をしながら「は?」と言った。
男は受け取った寝巻きに視線を落とした後、もう一度を見た。

「お前って不思議な奴だよね」
「え……?」
「オレが言うのも変だけど、危機感とか無いわけ? 本当にオレがお前を殺さないとでも思った?」
「だ、だ、だって……シャワーを貸せば見逃すって……!」
「そう言ったけど、普通素性も知らない男の言葉とか信じる? まぁオレは助かるから良いんだけど」

真っ直ぐに見つめてくる男の目が少し怖かった。
やはりあの言葉は嘘で本当は殺すつもりなのだろうか。
生唾を飲み込みながら一歩後ずさると男はため息をついた。

「なんか調子狂うなぁ。オレは後で良いから」
「……え?」
「先に入ればって言ってるの」

真意が読み取れない瞳で見つめられると何も言えなくなってしまった。
脅すような事を言われた後で素直に”はい、そうします”とは言えなかった。
警戒しながら「ま、まさか……お風呂で……」と小さく呟くと男はため息を零した。

「オレが本当に殺す気だったらとっくに殺してるから」
「そ、そんな」
「焦れったいなぁ。入らないなら此処で」

男は衣服の装飾品である丸い球体に触れると、ゆっくりそれを引っ張った。
ゆっくりと姿を表したのは球体から伸びる針。
まさにそれは路地で出会った時に地面に突き刺さったそれだった。
の目が大きく見開いていくのを見ながら男はその針先をに向けた。

「これを額に刺すよ。これさ、思い通りに人を動かせるんだよね」
「え、え……ちょ、ちょっと待ってください!」
「なら先に入って。オレあんまり気は長い方じゃないから」
「わ、わかりました! は、入ります!」
「うん。そうしてくれると助かるよ」

は逃げるように脱衣所のドアを開け、中に逃げ込んだ。
ドアに背中を預けながらズルズルとしゃがみ、大きく深呼吸した。
男の言っている事がどこからが本気でどこまでが嘘なのか分からない。
とてもじゃないがゆっくりお風呂に入れそうにないことには頭を抱えた。


2019.10.19 UP
2020.06.02 加筆修正
2021.07.22 加筆修正