パラダイムシフト・ラブ

4

バスタイムはいつも日頃の疲れを取るためのリラックスタイムなのだが、客人とは到底呼べないが次を待っている人がいるため手早く済ませた。
そのせいか鏡に映るお風呂上がりのの表情からは疲れは取れておらず、不安な表情になっていた。
そんな自分の表情は見なかったことにし、バスタオルで髪の毛を拭きながら脱衣所のドアを開けた。

「お、お待たせしました」
「うん」

玄関の方に目をやると腕を組みながら立っている男と目が合う。
咄嗟に床に目をやると濡れた箇所はなく、がシャワーを浴びている間、男が其処から動かなかったという事が証明された。

「あ、あの」
「何?」
「ずっとそこに?」

しかし、男は不思議な人間だ。
物的証拠は無いにしてもの中では男が部屋を物色したのではないかと疑問が消えなかった。
疑うような眼差しと、感情が消えている瞳が交差する。

「そうだけど?」
「そ、そうですか」
「濡れたままでうろつく程馬鹿じゃないから」

男の言葉には気がついた。
靴は脱いではいるものの男は玄関にいる。
滴る雨水が玄関マットに落ち、吸収して変色していたが渡した着替えは濡れないように配慮してか、乾いた床の上にそのまま置かれていた。

「す、すみません。先にタオルとか渡しておけば良かったのですね」
「別に。で、オレは入って良いの?」
「あ、はい。どうぞ」

脱衣所の前のドアから退くと男はゆったりとした動きで床に置いてある衣服を持ち、脱衣所へと向かってきた。
「どうも」と言葉を残しながら男は脱衣所へと消えた。
その扉に向かって「中にあるのは自由に使ってください」と伝えるが、脱衣所からは返事はなく、しばらくすると風呂場のドアが開く音が聞こえた。
この時になっては気付かされた。
謎の男のペースに乗せられている、と。

一体自分も男も何を考えているのだろうか。
男の目的が何なのか分からないだけに落ち着かず、キッチンの前をウロウロしては立ち止まり、またウロウロを再開する。
本当に部屋の中を探られていないのか気になり、床に水滴がないか調べるがそれらしきものは見つからなかった。
とりあえず肩にかけていたタオルで男が歩いた場所を抜き取り、扉を見つめた。
すぐにシャワーの音が聞こえ始め、チャンスだと脳から指令が来る。
しかしそれは人としてどうかと思う行動だった。

「……でも」

口から出た言葉には後ろめたさが滲む。
しかし、チャンスは今しか無い。
何か見つかれば男を知るヒントになるかもしれない。

深呼吸を繰り返し、決心したは念の為に脱衣所のドアをノックするが、当然のように反応は無い。
改めて男がシャワーを浴びていることを再確認してからゆっくりとドアを開けた。
すりガラスの向こう側にぼんやりと映る男のシルエットに思わず生唾を飲み込む。
心なしかドキドキしている自分に”何を考えているんだ。時間は限られているんだよ”と言い聞かせて洗濯カゴの前にゆっくりとしゃがみ、無造作に投げ込まれた洋服に恐る恐る手を伸ばした。
早鐘で打つ心臓を落ち着かせるために深呼吸を繰り返しながら水気を吸った服を持ち上げるとそれは重たかった。
手始めに震える手でベストを持ち上げ、装飾品の玉に触れてみる。
先程男がしたように引っ張ってみても、針は出てこない。
その装飾品はなんの変哲も無いごくごく普通の飾りボタンだった。
何か仕掛けがあるのではないかと、生地の裏に手を入れてみてもそれらしいものは見つからなかった。
ポケットらしき物も見つからず「何も無い」と自然に口から漏れた。
その下から出てきたズボンにすぐに視線が移動する。
小心者の心臓とは裏腹に伸びる手は大胆で、すぐにズボンへと伸びた。
ポケットに手を忍ばせると指先に紙のようなものが触れた。
取り出そうとしたところで水音が止まり、瞬時に顔がすりガラスへと向く。

「あ、す、すみません! もう出ますか?」
「……いや」

少ししてまたシャワーの流水音が聞こえてきた。
その音と男の言葉に安堵のため息がの口から漏れた。
それでもいつ男がシャワーを終えるか分からない状況に心臓が痛くなるほど鼓動する。
ゆっくりと生唾を飲み込み、触れていた紙のようなものをゆっくりと取り出した。
四つ折りにされているそれを破らないように慎重に広げると少し黒いインクが滲んではいたが、記号のようなものが読み取れた。
いくつも並んだそれが何を意味しているのかは分からないが、持ち歩いているという事は重要な物なのだろう。
は浴室を警戒しながら綺麗にまた折りたたみ静かにポケットへと戻した。

「あの、ドライヤー! 使いますね!」
「はいはい」

所持品から得たヒントは、男が知らない言語を使う国から来たという事だけで、詳しい情報を聞き出すのは男が出てきてから聞くことに決めたは不完全燃焼な気持ちを胸にドライヤーを手に取った。
セミロングの髪の毛を乾かしているとまたシャワーの音が止まった。
慌ててドライヤーを切り、「わ、私、出ますね!」と叫び声にも似たような大きな声を上げてからはその場から逃げるように飛び出した。
半乾きの髪の毛を揺らしながら早鐘で打つ胸に手を置きながらドアを凝視する。

「バレない……よね?」

自分が行った行動に気づかないことを祈っては自室へと戻った。

*****

とりあえず言われた通りに風呂は貸した。
当初の予定ではすぐに帰ってもらうはずだったが、メモに記された記号が頭から離れない
会った時に言われた”同業者”という言葉と”アレじゃないの?”という問いも心の中でモヤモヤとくすぶっていた。
の中で何か引っかかるものがあり、男からどうやってその情報を引き出すべきか考えた。

待っている間何もしていないのも不自然かと思い、そそくさと冷蔵庫を開けてみる。
特にこれ言って出せる物は無く、仕方なくインスタント類が保管されている棚を開けてコーヒーのスティックを取り出した。
しかし、飲み物を用意したところでどうする。
話を聞くにも部屋の間取りは1K。
キッチンで話を聞くのも何か違う気がするが、かと言って素性も解らない見知らぬ男を自室へと招くのも考えものだった。
早くしないと男は脱衣所から出てきてしまう。
取り急ぎは飲み物を出して事情を聞き、自分の中の疑問がクリアになったら帰ってもらうことに決めた。

飲み物の好みが分からなかったため無難にコーヒーと砂糖を用意し、2つのカップをベッドの前に置かれたテーブルに静かに置いた。
テレビを見るために買ったはずのソファは、今ではカバンやスーツなどの私物置き場となっている。
散乱していた私物を無理やりクローゼットに押し込み、あとあとになって明日の出勤準備の時にそのドアを開けることになる自分を思うと憂鬱になった。
ため息をつきながら綺麗になったソファに腰掛け、背もたれに深く背中を預けるとまた疲れが押し寄せてきた。
明日は雪崩を覚悟して少し早めに起きなければならないな、と呑気に考えていると脱衣所のドアが開いた音が聞こえた。

無意識に背筋が伸び、開けておいた自室のドアの向こう側にいる男と目が合った。
しっとりと濡れている髪の毛が自分よりも女性っぽくてなんだか複雑な気持ちになる。

「の、飲みます?」
「……別にそこまでしてくれって頼んでないけど」

男は何食わぬ顔での自室に入るとの目の前にゆっくりと腰を下ろした。
ソファに座っている分の方が視線は高く、ほんの少し家主として強気に出れる気がした。
一言言ってやろうとした時だった。

「そうか。もしかして毒とか入れてオレを殺そうとしてる?」

突拍子も無い言葉には吐き出そうとした言葉を飲み込んだ。

「は? 毒?」
「ほら、オレはお前を殺そうとしたからさ。お前がオレを殺そうとしてもおかしい話じゃないだろ?」
「どっからそんな話が……っていうか一般人は毒とか持ってないです……」
「そうなの? まぁ、どの道オレには毒は効かないから意味ないけどね」

一切感情を移さない顔でカップに手を伸ばす男の余裕にの表情が曇る。
やっぱりこの男はどこかおかしい。
一般人とズレてはいると思っていたが、ここまでズレているとは思わなかった。

「と、とりあえずお風呂は貸しました」
「うん。借りたね」
「お帰り下さい……と言いたいところですけど、ちょっと気になることがあるんで……それを聞いても良いですか?」
「良いよ。何?」

意外にも男は素直に応じ、頷いた。
しかしいざ聞こうとすると、どこから聞いて良いのか分からずは視線を宙に泳がせる。
出身国か、目的か、犯罪者なのか。
いろんなことが頭の中を駆け巡る。
男はそんなを見ながら急かすことなく質問を待っていた。
まず一番に聞くべきこと、それは。

「えっと……私のこと……殺しません……よね?」

身の唖然の保証だった。


2019.10.20 UP
2020.06.02 加筆修正
2021.07.22 加筆修正