パラダイムシフト・ラブ

5

身の安全を確認するのは本能的に当然のことだった。
は来ていたTシャツの裾を強く握りしめながら男を真っ直ぐに見つめた。
男は一度から視線を外すと、何かを考えるように顎に手を当てながらブツブツと独り言を呟いた。
唯一聞き取れた言葉と言えば、”ネン”だとか”ヒソカ”だとか、横文字系の言葉だけ。
声をかけて良いのか迷っていると、目の前の男は大きな瞳を再度に向ける。
小さく「ひぇっ!」と声を出しながら、転がっていたクッションを引き寄せ胸に抱いた。

「殺さない」
「ほ……本当ですか?」
「最初は殺そうかと思ったけど、今は殺さない」
「……やっぱり、本気だったんですね」
「あ、それは分かるんだ。でも、此処に来るまでに気が変わったのは本当。殺さない。いや、たぶん殺せない」

疑問が残るような言い方だったが、自分の身が少なくとも今は安全である事が分かり安堵のため息を漏らしながら改めてはソファに深く背中を預けた。
そんな簡単に信じて良いものではないと思うが、少なくとも聞いた事には答えてくれる事で最初に出会った頃のような恐怖感は不思議と薄れていた。
男が言っていたように殺すのであれば自分はとっくに殺されているだろうと思った。

「実はオレ自身が不可抗力の厄介ごとに巻き込まれててね。その解決策がお前にあるのかもしれないんだ」
「わ、私……ですか?」
「そう。でも、何でお前なのかオレにも分からないんだけどね。そもそもお前がキーなのかどうかも実際には分からない」

は静まり返る部屋に息苦しさを感じた。
壁に掛かった時計がコチコチと静かに動く音だけが部屋に響く。

「どういう……事ですか? 私に、何かあるんですか?」
「オレにもよく分からないけど、もし本当にそうなら……運命の人?」
「え? は? 誰のですか?」
「オレの」

時が止まった気がした。
目の前の男が冗談を言っているようには思えなかったが、出会いが出会いなだけに冗談かと思った。
そもそも今時”運命の人”とは一体どういう事なのか。
放心状態でフリーズしているに男は左手を差し出して「指輪は見える?」と聞いてきた。
言われるがままにはおずおずと身を乗り出すようにして男の細くて綺麗な指先をしている白い手を見る。
小指にはシンプルなデザインの銀色の指輪があり、それを見ながらは小さく頷いた。
その男から特徴を聞かれ、素直に見えているままの事を伝えると男は「これは現物なのか」と不思議なことを言っていた。

「ただの普通の指輪に見えますけど」
「箱に入ってた時は普通に見えたけど、指にはまったら念が発動してオレはこの世界って言うのかな? 飛ばされて、自分では抜けないようになってた」
「は? ねん? え? 自分で取れないんですか?」
「まぁ見てれば良いよ」

男は見せていた手を引っ込め、右手で指輪に触れると一気に引き抜こうと力を込めた。
右手の甲には血管が浮きあがり、爪が指輪の隙間に入り込んでそこから血が滲み出した。

「ちょ、ちょっと! な、何して……」

それでも指輪は抜けず、男はまるで指ごと引き抜こうとしているかのようにすら見えた。
見ていられないその行動には思わず男の手を包み込んでいた。

「も、もう良いです! 十分です! 分かりましたからこれ以上は止めてください! それ以上やったら指が!」
「別に本当に指ごと引き抜こうとしてないから」
「そ、そうだとしても……痛そうだし、み、見てられません!」

包み込んだ手から男の手の力が少しずつ抜けていくのが感じ取れた。
ゆっくりと手を解放するとの指先は少しだけ赤く染まっていた。
血の気が引きそうになりながらもテーブルの上に置いてあるウェットティッシュのケースを引き寄せ、3枚ほど取り出してすぐに指に被せた。
傷口はどうしようかとあたふたしていると男は「オレは平気だから」と、顔色を変えずにの動きを目で追っていた。

「でも、ちゃんと消毒とかした方が良いですよね?」
「あぁ平気平気。こんなの擦り傷にもならないから。そもそも仕事は無駄なくやるから普段怪我とかしないんだよね。したとしても鍛えてるから大丈夫」
「いや、怪我って鍛えてるとか関係無いですよね……?」
「それより」
「はい……」
「お前が本当にそのくだらない運命の人ってやつならコレを外すのに協力して欲しいって話なんだけど」

とりあえず指の根元にウェットティッシュを巻きつけ終えたは顔を男へと向けた。
見た目は至って普通の指輪だが男がどんだけ力を入れて抜こうとしても抜けのに、自分が関わる事で抜けるとは到底思えなかったは「はい?」と素っ頓狂な声を出した。
そもそも何処から来たのか分からないし、何の目的があって外れない指輪を外したいのか、そしてそれを外す協力者がどうして自分なのか。
分からない事だらけで、本来なら此処で警察に通報などをして一件落着になるのだろうけれど、にはどうしてもそれが出来なかった。
怖い思いをしたのは確かだが、どうしてか少しばかり放っておけなかった。

「……まず……その”運命の人”って言うのは、具体的にどういう事なんですか?」
「具体的にはオレにも分からないけど」

一呼吸置いて男ははっきりと告げた。

「メモの通りで言えば、恋人なんじゃない?」
「は?」

また部屋に沈黙が訪れた。

*****

「こういうのって何処から話せば良いのかな」
「じゅ、順序立てて教えてくれませんか?」
「教えたら協力してくれるの?」
「……内容によります」

男は少し考える素振りを見せた後、ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。
ドライヤーで乾かしたのかそれはカピカピに乾いており、まさにが脱衣所に侵入してこっそり見た物と同じ物だった。
男は「これ」と言ってに手渡し、言われた通りに広げてみるとやはり記号が羅列されているだけの物だった。
そんな物を渡されたところで何が書いてあるのか分からない。
は受け取ったそれと男を交互に見比べながら一言「え? これは……何でしょうか?」と素直に聞いた。

「読めないの?」
「……少なくとも日本語には無い記号ですね。これは……文字なんですか?」
「なるほど。だからオレもこっちに来てから何も読めないわけだ」
「えっと……貴方は読めるんですか?」
「うん。内容はオレが元居た国? 世界? に帰る方法が書いてあるんだけどちょっと面倒臭いんだよね」
「何て書いてあるんですか?」

は渡された紙を男に返し、答えを待った。
聞けば何でもすぐに答えてくれていた男が珍しく黙ってしまった。
よほど言い辛い事でも書いてあるのだろうか。
どうしたのもかとそわそわしていると男はテーブルに紙を置き、一箇所を指差した。

「この指輪は運命の人からのキスで外れる」
「へ」

予想外の事を言われ、の目が点になる。
長い指が次の行を指す。

「指輪が外れる時、元の世界へと戻れる」
「えっと……」

さらに次の行を指差す。

「運命の人が死ぬと持ち主も死ぬ」
「し、死ぬ……?」

そして最後の行を指差した。

「これが一番面倒臭いんだけど、100日以内に指輪が外れないと2人共死ぬ」
「う、嘘……」
「勿論このメモが本当かどうか分からないけど指輪が外れない以上もしかしたら本当かもしれない」
「で、でも……その運命の人が私って証拠は……無いんです……よね?」

大きな瞳がゆっくりとに向けられる。
急に息苦しくなり、嘘だと思いたかった。
そんな事を急に言われてどうしろと言うのだ。

「今こうしてオレが普通に話せる相手がお前しかいないのが何よりの証拠だろ?」
「こ、これからいろんな出会いが……あるかも……しれませんよ?」
「ないね。オレはこの世界に来てからこの部屋に来るまで一度だって殺気を抑えてない。本来、オレの殺気に触れたらあの路地すら入れないのにお前は簡単に入れた。そしてこうして今、オレと話している。どう? 確率からすれば可能性は高いと思うけど」

男は冷めてしまったコーヒーを飲みながらを見つめていた。
はクッションを抱きしめながら顔を半分だけ埋める。

「ほ、本気……なんですか? イタズラじゃないんですか?」
「オレだって本当は信じたくないよ。けどこの指輪は抜けないし、オレはこの国に飛ばされてきた。折角掴んだ手がかりだから、お前が運命の人じゃないって確証が得られるまでは此処に住ませて欲しいんだよね」
「……は?」

本日何回目の言葉だろうか。
その時、仕事鞄を放り投げたクローゼットの中からかすかにメールが届いた事を知らせる短いバイブ音が聞こえた。
相手は誰だか想像はついたが、見に行く気になれなかった。
は頭を抱えながらやはり警察に通報した方が良かったのではないかと後悔した。


2019.10.23 UP
2020.06.02 加筆修正
2021.07.22 加筆修正