パラダイムシフト・ラブ

6

「えっと、その! えぇ……なんていうかその!」
「とりあえず深呼吸しようか」

男に言われるがままには一度ゆっくりと大きく息を吸い込み、静かに、長く吸い込んだ息を吐いた。
何度か深呼吸を繰り返し、少しだけ気持ちが落ち着いたところでは口を開いた。

「じょ、冗談……ですよね」
「何が?」
「だ、だから……その……指輪とか死ぬとか……全部です」
「何処までが本当かは正直分からない。けど、オレが此処に居るってことはあながち嘘じゃないかもしれない。って何度も説明したよね?」
「そ、それは……そうなんですけど……」

どうして当事者であるこの男が冷静にしていられるのか、には分からなかった。
読み取れない表情と淡々とした口調でそんな事を言われれば誰だって信じられないだろうが、身なりや行動を考えると”もしかしたら”という考えに行きつく。
まさかこんな事になるとは思っていなかったは自分を悔やんだ。
どうしてすぐ家から追い出さなかったのか。
話なんか聞かなければ良かった。
家に上げなければ良かった。
あの路地を通らずにいつもの道を帰れば良かった。
作っていた資料なんて明日に回して残業なんかしなければ良かった。
しかし、後悔したところで目の前の男がいなくなるわけでは無い。
そして、最後の条件が仮に本当なのであれば、何とかしなければ100日後に死がやってくる。

「このルールが本当ならお前はオレに協力するしか助かる方法は無いんだよ」
「きょ、協力って……何を……」
「オレが帰るための協力だよ。じゃないと100日後に死ぬかもしれない」
「……そんなの、だいたい、私はまだその、ルールの運命の人と決まったわけじゃないですし」
「でもオレはこっちに来てから誰とも接触していない。だからオレの予想ではお前がキーで、協力してくれないとオレは元の世界に帰れない。ルールが本当ならあれば指輪に反応が出るはずなんだよね。オレがこっちに飛ばされる瞬間に念を感じたから間違いないと思う」
「ねん……ちょっと頭痛いんで飲み物取ってきます」

よろよろと立ち上がったに向かって男は表情一つ変えずに空になったマグカップを差し出した。

「オレのもよろしく。あ、ホットで」

*****

ちゃっかり部屋に馴染む男には頭を抱えた。
どうにも居座ってしまい、帰れと言ったところで帰ってくれなさそうな雰囲気にまずは事情を聞かない事には始まらないと感じたは男に此処に来るまでの経緯を聞いてみた。
耳を疑うようなストーリーに途中で思考が停止しかけたが、何とか聞いた話をまとめてみた。

「……一度まとめて良いですか?」
「良いよ」

大きく深呼吸をしながらは無表情でコーヒーを飲む男を見つめる。

「えっと、貴方はパドキア共和国出身のイルミ……ゾルディックさん。ちょっと特殊な……お仕事をしていて、お友達に遊び半分で付けられた指輪のせいで見知らぬ土地に飛ばされてしまった。元の国に帰るには指輪を外さないと帰れなくて、それには協力者が必要、と。合ってますか?」
「うん。でもヒソカは友達じゃないから。アイツはただの仕事仲間ね」
「仕事仲間……そのヒソカさんは一緒ではないんですよね?」
「おそらく飛ばされたのはオレだけかな」

相手の職業を聞いた後だと、イルミが表情を変えずに物騒な事を言ってしまうのも納得が出来た。
納得出来てしまった時点でこの異様な雰囲気に感覚が麻痺していきている事に自身感じていた。
普通の人なら「犯罪者が居ます!」とこの場で警察に通報するだろうが、通報したところでどうにかなる問題でも相手でもないと悟った。
そこで一つだけ疑問が湧いてきた。
念。
本当にそんな超能力を超えるような物がこの世にあるのだろうか。
それだけはにわかには信じられないでいた。
もし本当ならそれは見れるのだろうか。

「念、というのは……私でも見れますか?」
「見れるよ。見たいの?」
「見たい……です。どうやったら見れますか?」
「うーん。オレは操作系だからなぁ……あ、そうだ。何か水を張れる物はある?」
「水……それがあれば見れるんですか?」
「うん。水面に浮かべられる軽い物があるともっと分かりやすいけど」
「わかりました」

はゆっくりと立ち上がり、キッチンへと向かうと食器棚を開けた。
人間というのは恐怖を通り過ぎると不思議と冷静になり恐怖心から好奇心へと変わるらしい。
は大きめのどんぶりを取り出し、水道水をそれに貯め始めた。
縁ギリギリまで水を貯め、浮かぶかどうか分からなかったが爪楊枝を静かに浮かべてみた。
それは沈むことなく水面の上で静かに佇んだ。
零さないようにどんぶりを持ち、自室へと戻るとイルミは「ずいぶん大きいね」と言う。
どんぶりを目の前に静かに置くと、は不思議そうな面持ちでソファに座った。

「軽くやるから見てて」
「……はい」

こんなもので何が分かると言うのだろうか。
イルミは両手首を数回回すと、小さく「久しぶりにやるなぁ」と漏らした。
緊張した空気が部屋に流れる。
イルミはどんぶりに触れない距離で手を添える仕草を見せた。

「動かすよ」
「え」

そうイルミが言った時だった。
水面に浮かんでいた爪楊枝が右回転にくるくると動きだし、プロペロのように速度を増していく。
信じられない光景に目の前で動くそれに目が釘付けになる。
タネなんか仕込めるわけがない。
今し方が用意したそれにイルミは一切触れることなく、水面に浮かぶ爪楊枝だけを操っている。

「どうして欲しいか言ってみて」
「え、えっと、えっと、じゃ、じゃあ……止めて、ください」

の声に合わせて勢いよく回っていた爪楊枝はピタリと止まり、どんぶりから水が少しだけ溢れた。

「他には?」
「あ、えっと、左回りは出来ますか?」
「連続して何か言ってみて良いよ」

今度は止まっていた爪楊枝は言われた通りに左回りを始めた。

「……右回り……止まって。えっと、ゆっくり右に20回、左に5回……」

の言葉に合わせて爪楊枝は踊る。
呆気にとられていると爪楊枝は静かに止まり、男は「これが念」とさも当たり前のように言う。
いまだに信じられなくて何か細工がしてあるんではないかとはイルミの手を見た後、爪楊枝に手を伸ばした。
自分で用意した物だから細工などされているはずがなく、は驚いた表情でイルミを見つめた。

「手品……じゃないんですよね」
「練習すれば誰でも出来るようになるからある意味手品みたいなもんだけど、コツがいる。ほとんどの人は仕事に使うんじゃない?」

話しを聞けばイルミの居た国、否世界には”ハンター”という職業があり、その職業を名乗るための試験があるらしい。
その試験をクリアし、”念”を習得しなければ立派なハンターとは言えないらしい。
その”念”は誰でも最初から使えるわけではなく、ある程度の訓練が必要だと言う。
こんな事を出来る人間がゴロゴロ居る世界とは一体どんな世界なんだと思ったが口にはしなかった。

「オレは操作系だからその爪楊枝しか操作できないけど、系統によっていろんな現状がこれに現れる」
「……系統とか……あるんですか?」
「水の量を増やすのは強化系。水の味が変化したら変化形。水の中に異物を発生させたり、水の色が変化するのは具現化と放出系。特質系はそれ以外の現象が現れるんだけど」
「ちょ、ちょ、ちょっとストップ!」
「何?」
「情報量が……多くて……結論はえっと、手品ではない……んですよね?」
「手品ではないね。念だから」
「念……」

また頭が痛くなってきた。


2019.11.01 UP
2020.06.02 加筆修正
2021.07.22 加筆修正