パラダイムシフト・ラブ

8

握られた手にの視線が無意識に落ちる。
こんな状況にも関わらず久しぶりの異性の手の感触に体の芯が少しだけ熱くなるのを感じ、顔を上げられずにいると頭の上から声が降ってくる。

「……動いた」
「え?」
「これ」

ゆっくりと離された手をイルミは見つめていた。
何事かと思いもイルミの手を見ると指輪に数字が浮かんでいた。
先ほどまではシンプルなデザインだったそれにはいつの間にか”100”と刻まれており、二人は顔を見合わせた。

「イ、イルミさん……これって……」
「間違いなく念が発動したね。ってことはやっぱりお前が」
「今はそれ……言わないで下さい」

イルミの言葉をピシャリと静止し、は唇を噛み締めた。
もしかしたらこの数字はカウントダウンなのかもしれないと直感で思った。
この数字が時間が経過すると共に減算され、0になった時を思うと怖くなった。
そんなの不安そうな表情を見ながらイルミは「これで分かったでしょ?」と言うがいまいちは納得出来なかった。

「何で……私なんですか?」
「さぁ? オレが知る訳ないじゃん」
「でも……」
「とりあえず一歩前進したってことで、オレは少し外に出てくるから」
「へ? い、今からですか? え、ちょっと何処行く気ですか?」
「大丈夫。殺しはしないから。たぶん」

そう言うとイルミはゆっくりとソファから立ち上がり、と目を合わせることなく出て行ってしまった。
一人残されたは背もたれに背中を預けてクッションを抱きしめた。

「どうすりゃ良いのよ……そんないきなり言われても……もう本当に何なのよ……」

呟いた言葉には誰からも返答はない。
静まりかえった部屋には鼻をすする音が静かに響いた。

*****

暗闇の中、誰かに呼ばれている声が聞こえた。
その声は何度も何度もの名を呼ぶ。
睡眠を邪魔する声は不思議と悪い気はしなかった。
ふわふわの布団に包まれている中で聞くその声は心地が良かった。
のも束の間、突然襲ってきた痛みには目を見開いた。

「痛いっ!」
「あ、やっと起きた」

今の自分の現状はどうなっているのか。
体をゆっくりと起こし、眠たい目を擦りながら声の方向に顔を上げると昨日外に出て行ったイルミがそこに居た。
いつ戻ってきたのか、今の自分に何が起こったのか理解出来ず、頭の中が混乱した。
部屋を見渡すとテレビには電源が入っており、コーヒーの匂いがする。
ジンジンと痛む頭に手を置くとベッド脇に立つイルミが「全然起きないから引っ張った」と言う。
この時、はイルミに髪の毛を引っ張られて起きたのだと分かった。

「ごめん。今起きたから。はい、電話」
「え……?」

目の前に突き出された自分のスマホを見せつけられた時、衝撃が走った。
通話状態の画面に同僚の名前が映し出されていた。

「ま、待って! 貸して!」
「ん」
「も、もしもし!?」

慌ててイルミからスマホを奪い、耳に押し当てると向こう側からクスクスと笑う声が聞こえた。

「ご、ごめん! 本当に! うん、まぁ……なんでもないんだけど……いや、それはえっと……と、とりあえず今から行くから! あ、うん。そうして……あーはい。はい。了解。ほんとごめん! でも、ありがとう! はーい。お疲れ様です……」

通話を切るとは肩を落としながら長いため息を漏らす。
イルミは何を言わずを見つめながら左手を差し出した。
その手にはマグカップが握られておりコーヒーの匂いがの鼻をくすぐる。

「飲む?」
「……やばい」
「え?」
「急がなきゃ!」

不思議そうに見つめるイルミを押しのけ一目散に脱衣所へと駆け込んだ。
その後をイルミはゆっくりと追いかけ、受け取ってもらえなかったマグカップに口付けた。

「今の誰?」

キョトンとしたイルミの顔が洗面台の鏡に映る。
状況を全く理解していないであろうその表情に振り向き、口に入れた歯ブラシを動かしながら「はいはおひほ!」と叫ぶの顔は蒼白していた。
イルミが「仕事?」と聞けばは無言で数回頷いてからシンクに頭を突っ込んだ。
慌ただしい朝の始まりに首を傾げながらイルミはその場を後にした。

休みでもない限り見れない情報番組の音がの気落ちを焦せらせる。
ソファに座りながら番組を理解しているかどうか判らない表情でテレビを見ているイルミの前を何度も往復し、はたと気がついた。
どうやって着替えれば良いのだろうか。
イルミは気にしていないのか自分で淹れたらしいコーヒーを呑気にすすっている。
今ここでクローゼットを開ければ無理やり押し込んだ私物の雪崩が起こる。
女としてそれはどうかと思ったが、時間が惜しい。
背に腹は変えられるず、勢いよく開けると案の定雪崩が起きた。

「うわっ」
「あぁあもう! 見ないで見ないで!」

カバンとスーツ一式とブラスを腕に抱え、また私物を中に押し込んだ。
この中を整理しない限り雪崩が起こるのは致し方ないこと。
はため息をこぼしながら脱衣所に再度逃げ込み、身支度を済ませることにした。

*****

いつもの化粧、いつものスーツ、いつもの家。
いつもと違うことと言えば、家に人がもう一人居ること。
パンプスに足を入れ、ストラップをつけながら玄関まで見送りに来たイルミを見上げた。

「あの……昨日出かけませんでした?」
「うん。ちょっとね。でもすぐ帰ってきたけどは」
「うわっ! もうこんな時間!」
「寝て」
「あの! もう私行かないと!!」
「……そう」
「えっと、歯ブラシは新品のやつが洗面台の棚にあるので使ってください!」
「分かった」
「あとは、えっと……私が出たらちゃんと鍵閉めてくださいね」

まるで初めて留守をする子供に言うよな気分だった。
イルミは腕を組みながら首を傾げ「遅れるよ?」と分かってても言って欲しく無い言葉をくれる。
両足にストラップが止まったことを確認してはカバンの紐を肩にかけた。

「分かってます! あと、私が帰るまで絶対に家から出ないでください!」
「うん。それよりオレのことは良いから早く行きなよ」
「うぅ……じゃあ、えっと、えっと」
「はいはい。いってらっしゃい」

久しぶりに言う言葉に恥ずかしさが滲む。
何年振りだろうか。
誰かに”いってきます”と言うのは。

「い、い、いってきます」
「うん。いってらっしゃい」

なんとなく恥ずかしくて顔を見ることが出来なかった。
すぐにドアを閉めると背後で鍵がかかる音が聞こえた。
なんだかんだ言って悪く無いものだと思ったが、その考えはすぐに消えた。
まずは電車に乗らなくてはならない。
はすぐに廊下を走り、エレベーターへと向かった。

*****

「おはよう!」と肩で息をしながら重たいカバンをデスクに置くと「ありゃ、もう来たの?」と隣の席のが驚いた顔でを見上げた。
とは大学からの知り合いで、偶然にも同じ会社に就職した。 今となっては同僚であり同じチームで働いているはそわそわしながら好奇心が抑えられないような視線でカバンからノートやクリアファイルを取り出しているを頬杖を付きながら見ていた。

「ちょっとちょっと。男と同棲してるなんて初耳なんだけど?」
「ど、同棲じゃないから!」
「またまたぁ。あ、そうだ。はい、これ」

パソコンに電源を入れ、席に着いたは引き出しから取り出した熱冷ましシートを手渡した。
それを受け取ると「39度でぶっ倒れてるって設定にしてあるから」と楽しそうな声と魅惑のウィンクが飛んできた。
は手渡されたそれをため息をつきながらおでこに貼るとゆっくりと椅子に座り、パソコンにログイン画面が表示されるのを待った。

「で、関係は? やけに親しそうな感じだったけど?」
「……関係って。えっと、し、親戚? そう! 親戚!」
「ふーん親戚ねぇ。何歳?」
「……え、知らない」
「……詳しいことはランチで聞かせてもらおうかな。ね?」

の肩を軽く叩くとパソコンの前に向き直った。
もパソコンにログインパスワードを入力し、昨日の夜から届いているメールを一つずつ確認するが、なかなか頭に入ってこない。
この秘密をにどう説明すれば良いのか。
何て誤魔化せば納得してもらえるのか。
そればかりが頭の中で駆け巡り、大きなため息が漏れた。

の今日の予定は、午前中は社内で事務作業を行い、午後からは営業部とミーティング、その後1件外出がある。
直帰で良いと上司から言われた時に一瞬だけイルミのことが頭の中でちらついた。
とりあえず帰ったらもう一度話しをしないといけないと思った。

溜まっているメールを確認しながら、昨日の夜に仕上げた資料をデスクの引き出しから取り出して目を通す。
改めて内容を確認したが問題は無いように思えた。
丁寧に作った資料を持ち、は席を立った。
向かう先は1つ上の階に拠点を置く営業部。
首から下げた社員カードを壁に備え付けられているカードリーダーにかざすとピっと解錠の音が聞こえた。

「失礼します」

重たいドアを開けると、営業部独特の垂れ幕が目に入った。
今月の目標件数、今月の成績、新人社員の決意表明。
どことなく懐かしい雰囲気に浸りながら、営業部の島を横切り窓の前に座る男の前に立った。

「これ、言われたやつ……です」
「お! 早くね? サンキューな。それそこに置いておいて」

画面を見ながらメールの返信を打つ男に持ってきた資料を言われた通りに山積みにされている資料の上に置いた。
忙しない男に軽く頭を下げ、その場を去ろうとした時、「あとさ」と声をかけられた。

「後でメールするから」

小さく聞こえた声には驚いた。
それでも男は画面を見たまま指を動かしている。
「わかりました」と言いながら小さく頷き、その場を離れた。

大量に届いている確認メールや、依頼メールを裁くのには時間がかかった。
一通り全てのメールに目を通しながら必要なメールに返信をし、自分のカレンダーに納期や提出日を記載していく。
その様子を見ていたが「ちょっと良い?」と声をかけてきた。

「此処の色さぁ……どう思う?」

椅子をのデスク前まで滑らせて一緒にモニターを眺める。
モニターに映るのは開催前の花火大会の告知ポスター。
最寄りの駅に掲示するためのものだったな、と思い出しながら意見を求めてきた部分をじって見つめる。

「うーん。コピーに対して少し小さいかも? 原寸大の大きさを考えるともう少しテキストを削ってフォントを3ポイントぐらい上げてみたらどうかな?」
「そっか! なーんかスッキリしないと思ったら、そういうことね。流石うちのエース!」
の方がこの分野は長いんだから、私の意見なんて……」
「一人で見てると主観が入っちゃうでしょ? こういう違う人の目から見た意見はとっても重要なのよ。ありがとうね」

一人で見ると主観が入る。
その言葉が頭の中で木霊した。
誰かにイルミのことを相談した方が良いのだろうか。
しかし、話したところで信じ難い話を誰が信じてくれるというのだろうか。
そんなことを思いながらは仕事に集中するために現在進めているプロジェクトのデータを開いた。


2019.11.06 UP
2020.06.02 加筆修正
2021.07.22 加筆修正