パラダイムシフト・ラブ

9

営業部の付き添いで参加した外出では、あまり発言することはない。
先方には担当デザイナーと紹介され、今回のデザイン案件の概要を把握するだけ。
必要になりそうな資料素材をあらかじめ説明し、揃った時点で案件に着手することを先方に伝えた。
トントン拍子に話しが進み、こうしてまた一つ案件が増えた。
カツカツのスケジュールの中にまた一つ案件を入れなくてはならないため、明日はスケジュール管理に追われそうだと思いながら営業担当と駅前で別れ、帰路に着いた。
今日は久しぶりに早く帰れる。
どこか寄って帰ろうかと最寄り駅のデパートを見上げた。
しかし、脳裏に一人の男の影が過ぎる。
そういえばあれからイルミは大丈夫だろうか。
ちゃんと家に居るのだろうか。
家の中を、クローゼットの中を見られていたりしないだろうか。
不安を胸に、改札を過ぎて下り階段を少し駆け足で降る。
昨日も立ち止まった横断歩道の前で信号が変わるのを待ちながらスマホを取り出すと1件のメールが来ていた。
先方からの挨拶メールだろうかと思い開くと、すっかり忘れていた相手からのメールだった。
内容は一文だけ”今週の夜暇?”と綴られていた。

誘いはいつも突然で、こっちの予定なんて御構い無し。
それでも久しぶりの誘いに胸が高鳴ったがどうにもイルミのこともあり、以前のように素直に喜べないでいた。
彼を一人にして良いものなのか。
いつもであればすぐに良い返事を送るのだが、今回だけは迷いがあった。
遠慮することなんて何一つないのに、自分でもどうしてか分からずその返事にはお断りの内容を打っていた。

「巻き込むわけには……いかないしねぇ」

画面の電源を落とすと横断歩道の赤信号が青信号に変わり、周りで同じようなに信号待ちをしていた人達がゆっくりと歩き出す。
コンビニを通り過ぎ、昨日の夜にイルミと出会った路地の前で立ち止まった。
色んな事が一気に起こった昨日の夜。
この場所であの男、イルミと出会ったと思うと不思議とその路地へと足を進めていた。
なんの変哲も無い薄暗い路地。
彼は此処で何をしていたのか。
そんな事を考えながら真っ直ぐに、イルミが待っているであろうマンションへと向かった。

*****

「ただい……まって何? どういうことですか?」

マンションのドアを開けてまず目に入ったのは散乱したキッチンだった。
朝は綺麗だったのに今は見るも無残な姿へと変わっているその前にはイルミが立っていた。

「おかえり」
「こ、これは……ど、どういう……ことですか?」
「なんか失敗したみたい」
「失敗って……」

失敗と呼ぶには甘すぎる惨状にイルミは詫びるわけでもなく、平然とそこに立ってコーヒーを飲んでいた。
何をしていたのか問えば料理をしようとしたと言う。
料理の経験を聞けば皆無という致命的な言葉が返ってきた。

「分かりましたから。分かりましたから……えっと」
がいつ帰ってくるか知らないから何かしようと思ったんだけど、オレ料理とかしたことないんだよね」
「それで……こんな事に?」
「うん。でもが帰ってきたし、これで安心だね」

何が安心なのかよく分からず、の口からは大きなため息が漏れた。
とりあえずキッチンはなんとかするとして、まずは汚れた服のまま自室に戻ろうとするイルミを呼び止めた。

「ま、待ってください。そのままの格好で部屋に戻る気ですか?」
「だってこれしか無いし。あぁ。洗えば良いのか」
「い、今脱ごうとしないで! えっと、替えの着替え渡すんで……でも、うん。そうですね。ご飯のこともあるから、まずは買い物に行きましょう」
「買い物?」

目の前で脱ごうとするイルミにその場に居るように伝え、すぐに自室へと入ると例のクローゼットに目をやった。
またあれを開けないといけない。
しかし汚れたままの格好で過ごされるのも困る。
案の定開けたドアからは雪崩が起き、クローゼットの中にあるラックから1枚のTシャツを取り出した。
物が落ちる音を聞きつけたイルミはその雪崩を見て「此処も掃除しないとね」と呑気に言う。
大きめの黒いTシャツをイルミに渡して脱衣所で着替えるように言うと、イルミは何も言わずにそれに従った。
なんのひねりもない単色のTシャツに着替えたイルミが脱衣所から出てくると目を奪われた。
そこら辺にいる男よりも断然格好良く見えた。

「何か変?」
「な、なんでもないです! とりあえず行きましょう!」

どうしてそんな気持ちになったのか。
男なら誰でも良いわけではないが、今まで出会ってきた男性とは一味も二味も違うイルミの存在に慣れないからだろうと自分に言い聞かせ、咄嗟に手を引いてマンションから出た。

*****

帰宅する頃に見た空は黒く、街頭と店の明かりが道路を照らし、大きめの道路に沿って歩くとショッピングセンターが見えてきた。
賑やかなその施設に驚くかと思えばそうでもないようで、何も言わずにイルミはの後ろを歩く。
エスカレーターを乗り継ぎ男性物の衣類用品が並ぶフロアに案内し、とりあえず上下3セットと下着数点と靴を1足選んで来るよう伝えた。

「何でも良いの?」
「あそこの壁から此処までの範囲内の物であれば」
「あんまり服とか興味ないからが選んでよ」
「え」

見下ろされながら言われた言葉に戸惑いが隠せなかった。
本人に特別な意図はないのだろうが、人の物も選ぶと言うのは好みの問題もあるため緊張する。

「で、でも私イルミさんの趣味とか……分からないし……」
「着れればなんでも良いよ」
「そうは言っても……なら、下着だけは自分で選んでください」
「分かった」

そこからはあっという間だった。
選ぶもの全てに「良いと思う」しか言わず、何を選んでも素敵に着こなしそうなスタイルにカゴの中があれよあれよと膨らんでいく。
当初予定していた数より多くなり、会計をした時には青ざめた。
財布の中からクレジットカードを出した時に横に居たイルミが「結構いくもんだね」との心の声を代弁した。

1階フロアに移動し、食料品を買い込むと結構な荷物になってしまった。
荷物を寄越せというイルミの言葉に甘えつつも軽いものだけは譲らず、二人して大量の袋をぶら下げながら帰路を歩く。

なんとなく不思議だった。
服を選ぶ時も心なしか楽しく、食品を選ぶ時も「何作るの?」と聞かれるのが嬉しかった。
一人暮らしでは絶対に味わえないコミュニケーションが心地良く、それでいて胸が少し傷んだ。
本来なら、隣に並ぶはずの人はこの人ではない。
付かず離れずの距離を取るイルミには振り返った。

「帰ったらまずキッチンの掃除ですね」
「ねぇ」
「何ですか?」
「オレはの家に居て平気なの?」
「正直お財布は痛いですけど……私が何とかしないと……死ぬかもしれないんですよね、私たち」
「まぁ、そうだね」

歩行速度を速めたイルミがの隣に並ぶとが持っていた買い物袋を無言で奪った。
急に軽くなった手元と隣に並んだイルミを見上げると真っ直ぐに前を見ているイルミが少しぶっきらぼうに「重たそうに持ってるから」と言う。
素直じゃない優しさがむず痒くては笑いながら「ありがとうございます」と返した。
その後、マンションに着くまで二人は無言で買い物袋だけがガサガサとお喋りをしていた。


2019.11.20 UP
2020.06.02 加筆修正
2021.07.22 加筆修正