パラダイムシフト・ラブ

14

ベッドから抜け出し、ソファに座ってぼんやりしているとイルミにシャワーを勧められた。
は言われるがまま脱衣所へと向かい、洗面台の鏡に映る自分の顔を見ながら鈍い痛みが続く首筋に手を当てる。
赤くなっているのだろうか。
洗面台に置いておいたヘアゴムを使って髪の毛を括り、首筋を見ようとしたが見えなかった。
余計な噂が立つのは面倒なので痛みが引くまでは髪の毛は下ろしておくことにし、着ていた物を脱いで籠へと乱雑に放り投げた。

勢いよく飛び出したシャワーの水は冷たく、うまく働かない頭を刺激するにはちょうど良かった。
昨日だけでいろんなことが起こった。
会社には遅刻し、キッチンは散々になり、キスをされて、家を追い出したあとイルミを探しに行ったら男の人達に絡まれ、助けてもらった。
そっと自分の唇に触れると少しだけ胸が痛んだ。
その痛みが昨日の出来事が嘘でなかった事を物語っている。
もんもんとしている頭でシャワーを浴びながら、浴びた後はある事をイルミに聞こうと決意した。

*****

「隣、良いですか?」
「うん」

なんとなく気まずくてソファに座る許しを乞うと、相手は小さく頷いた。
ゆっくりと隣に腰掛け、体を小さくさせるとは「あの」と切り出す。

「イルミさんは……何とも思っていない相手とキス……出来るんですね」
「出来るよ」
「え!? な、何で!?」

思わず顔を上げ、隣で涼しい顔をしているイルミを見上げた。
信じられないという表情を浮かべるに対しイルミは少しだけ首を傾げた。
その後顎に手を置き、何か考えたのちに口を開いた。

「ほとんど仕事が絡んでるけど」
「仕事、ですか」
「することで仕事が片付くんならオレはするし、してきた」

はクッションを手繰り寄せ力強く抱きしめた。
呑気にコーヒーを飲む相手はを見ずに静かにテーブルにマグカップを置いた。
もう何度も見たその姿には顔を埋めるしかなかった。
どうしてこうも自然で居られるのか。
女性の唇を奪っておきながら平然としているイルミに苛立ちが募る。

「イルミさんは……それで良いんですか……?」
「オレが元の場所に戻るにはキスをするしかない。しないとオレもも死ぬことになる」
「でも……でも本当に死ぬんですか? まだ本当にそうと決まったわけじゃ」
「まだ信じてないわけ? 指輪の数字に変化があった以上は念が発動してるから確実に死ぬ。オレは徐念師じゃないからこの念を解除することが出来ない」
「……何の為に、誰がそんな物……」
「さぁね。でも帰らないと仕事が溜まるし、だってオレが居たら邪魔だろ。お互いの為にもオレはさっさと済ませて帰りたいんだけど」

イルミが言っている意味が分からない訳でもない。
見知らぬ土地に飛ばされ、帰る方法がキスしかないのであればさっさと済ませて帰りたいと思うだろう。
が逆の立場であれば、もしかしたらそう思うかもしれない。
それでも、心の中では本当にそれで良いのだろうかとは思った。
本当はこの出会いに意味があるのではないだろうか、と。
もし本当に誰でも良いのであれば指輪の念が発動した後、あの時のキスでイルミは帰れただろう。
しかし、結果は帰れなかった。
はたしてからキスをしたとして本当に帰れるのだろうか。

「言いたい事は分かりますけど……でも……」

ゆっくりとクッションから顔を上げてイルミを見つめる。
何の感情もない相手とのキスはやはり抵抗があるが、イルミは違うようだ。
恐らく仕事であれば唇を合わせるどころか体だって抱くだろう。
そんな相手とキスをするのは、少し怖かった。

「ならさ」

低く落ち着いた声がやけに部屋に響いた。
嫌な予感がしてならなかった。
まだ一緒に居る時間は短いが、なんとなくイルミの次の言葉が予想できた。

「今度はからしてみてよ」
「……言うと思いました」
「だってそうだろ? オレからして駄目なんだからからしたら帰れるかもしれない。結果それで帰れるなら何も問題はないじゃん」

どこか自信あふれるイルミの表情には重たい溜息を吐いた。
本当は分かっている。
さっさと済ませてさっさと帰ってらもうのがお互いにとってそれが一番の得策ではあるが、昨日の今日でそんな事がに出来るわけがなかった。

「む、無理ですよ」
「何で? キスするだけだよ?」
「そ、そうですけど……その、そういうのって好意があってするもの、ですし」
「あ、オレそういうの気にしないから」

顔の前で手をひらひらさせて言うイルミにカチンときた。

「イ、イルミさんは気にしなくても私は気にします!」
「仕事と思えば良いじゃん。オレみたいに」
「そんな仕事は日本にはありませ……イヤ、ありますけど……ありますけど私はそういうのしたことないんです! なんとも思わない人と、したことないんです! 私は、そ、そんなに軽い人間じゃないので!」

デリカシーの無さに腹が立ち、思わず持っていたクッションをイルミに投げつけた。
イルミはあっさりと受け止めたクッションを脇に置き、「なら妥協案を出してよ」と言う。
そう言われるとの頭は空っぽになった。
確かに今思いつく案はからキスをすること以外は無い。
が何も言えないでいるとイルミは「早く」と急かす。

「ちょ、ちょっと待ってください! 今、考えてますから!」
「考えたって妥協案なんて出てこないでしょ」
「か、考えたら……出てくるかもしれないじゃないですか!」
「だからオレからじゃ無意味って分かったんだから、今度はからしてよ。それで失敗なら次を考えれば良いじゃん」
「好きでもなんでもない人に自分からなんて……私には出来ません!」
「ならはオレにそういった感情を持つ可能性はあるの? 言っとくけど仕事を先延ばしにするやつは仕事できない奴だから」
「だから仕事じゃないですから!」

これでは埒があかない。
体の体温が上がってくる感じがした。
どうやってもこの話題から逃れられない気がしたは唇を噛み締めた。

「協力、するんだろ?」

こちらを向いて長い足を組みながらを見つめるイルミは真顔だった。
その一言での中で何かがプツンと切れた感覚がした。
そこまで言うならやってやりましょう。
は眉間に皺を寄せながらイルミを見つめ「分かりました!」と語気を荒げて言った。


2019.12.03 UP
2020,06.03 加筆修正
2021.07.22 加筆修正