パラダイムシフト・ラブ

27

その日、がコピー器の前で次の会議で使うプレゼンテーションの冊子を作っていると時、それは突然やってきた。
とめどなく出てくる紙を素早く取り、ズレがないように揃えた後にホチキスで止める作業を繰り返していると誰かが壁をノックした。
ふとその音に顔を上げると、最近避けていた人物がそこに居た。

「宮前さん?」
「やぁ」
「お、お疲れ様です……」
「最近つれないけどどうした? 忙しい?」
「ちょ、会社ですよ。プライベートな話は」
「大丈夫だって。誰も聞いてないよ」

狭いコピー機の前で大人二人が並ぶ。
それでもコピー機はせっせと働き、もじっとしていられず少し荒っぽく印刷された紙を取った。

「あのデザイン、先方喜んでたよ。あんな斬新なアイデアが出てくるなんてやっぱりは凄いよ」
「ありがとうございます」
「今抱えてるプロジェクトってそこそこでかいじゃん? それが終わったら久しぶりに食事に行かない? 最近全然行ってないじゃん?」

ホチキスを止めていた手が一瞬止まった。
急に腰に回された手に思わず身を引いて逃げてしまった。
その行動に宮前は驚いたがそれ以上にの方が驚いていた。
何故逃げてしまったのか。
考えるより早く身体が拒否してしまった事実に自身が焦った。
お互い無言で向き合い、コピー機の音だけがやけに響いて聞こえた。

「は、はは……そういえばここ会社だったわ」
「そ、そうですよ。だから、そういうのはちょっと」
「悪い悪い。じゃ、また連絡するからさ。考えといて」

宮前はの肩を軽く叩いたあと、去っていった。
残されたの横でコピー機だけが元気に動いていた。

*****

会社から出る時自宅に電話にするのが日課になっていたはすぐに会社から出たあと、鞄の中からスマホを取り出した。
”自宅”で登録してある番号に電話をかけると数コール後に「何?」と無機質な声が聞こえてきた。

「今終わったんで帰りますね」
「うん」
「買い物して帰るので、お風呂先に入ってて大丈夫ですよ」
「そうしとく」

たったそれだけのやりとりなのに酷く安心するのは少しずつ気になる相手になりつつあるからだろうか。
何度か一緒に台所に立ってみたが、イルミには料理のセンスがない事が分かった。
きっとお腹を空かせているかもしれないと思うと自然と足が早くなる。
その姿を誰かに見られているとも知らずに。

最寄駅のスーパーで食料品を適度に購入し、帰路に着く。
少し荷物がある分重たいが、帰りを待っていてくれている人が居る現実を考えると苦ではなかった。
ここ数日で分かった好みと言えば、イルミは案外薄味が好きということだった。
肉料理は濃い味付けを好むみたいだが、サラダやスープは薄味を気に入っているように見えた。
毎日料理を作るのは億劫だったが、あの素直じゃない口からいつか素直に”美味しい”と言ってもらえる日がくるかもしれないと思うと料理も頑張ろうと思えた。

「ただいま」と言うと「おかえり」と返ってくる生活が心地良い。
既にお風呂を入り終えた後なのかサラサラの黒髪をな靡かせたイルミが脱衣所から出てきた。
同じシャンプーを使っているはずなのに香ってきた匂いは別の物のように思えた。
買ってきた物を玄関に置くと「何買ってきたの?」と言われた。

「明日と週末の分です。あ、からあげの材料もありますよ」
「覚えてたんだ」
「忘れるわけないじゃないですか」

マスターの前や自分の前で言われて忘れるわけがない。
思わず顔がほころぶとイルミは「変な顔してるよ」と言ってさっさとポットに電源を入れて部屋に戻ってしまった。
テレビからは芸人の笑い声が聞こえ、観覧者と一緒になってイルミが笑っているところを想像してみたが難しかった。
見ていて面白いのだろうかと思いながらは買ってきた食材を手際よく冷蔵庫に入れ、部屋着に着替えるために脱衣所へと向かった。
メイクを落とし、ラックに窮屈に押し込まれているタオルを見て苦笑いを浮かべた。
流石片付けを執事に任せて育ってきただけある仕舞い方は変わらないが、これでも良くなった方だ。
慣れない家事をこなしている痕跡がちらほらあり、こんな生活がいつまでも続けば良いなとふと思ってしまった。

イルミと出会ってからもうすぐ2週間になる。
未だに念の解除方法は見つからないが、色々と試さないといけないのは事実。
そう思った時、ふと頭によぎったのは宮前の存在だった。
もう脈がないのならいっそこの微妙になってきている関係を終わらせたい。
でも策がない。
考えなくてはいけないことがまた一つ増え、は溜息を漏らした。

簡単な野菜炒めと薄味のスープを二人で堪能しながらテレビを見ていると珍しくイルミが「あのさ」と切り出す。
すっと伸ばされた指先は家計簿へと伸び、は首を傾げた。

「どうしたんですか?」
「あのノートって何」
「あれですか?」
「うん。時々何か書いてるけど、なんなの?」
「あー……家計簿ですよ」
「苦しいの?」
「癖みたいなものです。一人暮らしを始めてからつけてるんですけど……ズボラな私は記録をつけてないとどうも心配で」
「ふーん」

私物に興味を示すイルミが珍しく、逆にイルミに家計簿をつけていたかと問えば「必要ないから」と言われた。
金銭管理の事を問うと、家計簿をつけないといけないほど困る生活はしてないようで、仕事の報酬額を聞いては目を点にさせた。
前に現金を所持しない話を聞いたことがあったが、まさか予想をはるかに超えるほどの高給取りとは知らずは自分との格差にめまいがした。

「と、特殊な職業ってやっぱり凄いんですね……」
「生半可な奴は生きていけない世界だからね。いつ後ろから刺されるか分からないし」
「つくづくイルミさんとの差を感じます」
「でもこっちの世界じゃ生計は保てないからなんて言うんだっけ。ニート?」

どこでそんな言葉を覚えてしまったのか気になったが、言葉を飲み込む代わりにはスープをすすった。
少し冷えたそれは薄味の優しい味がした気がした。


2020.03.08 UP
2020.06.04 加筆修正
2021.07.23 加筆修正