パラダイムシフト・ラブ

28

その日の朝、はいつも通りイルミに手を振って会社へ向かった。
を見送った後、面倒ではあるが言われた通りにイルミはドアの鍵を閉め、の自室へと向かった。
可もなく不可もないコーヒーを飲みながら半ば日課となっているワイドショーに目を向ける。
よくもまぁ同じような内容を毎日垂れ流せるなと思った。
そもそも元居た世界ではあまりテレビを見る機会がなく、一般人はこんな番組を毎日見ているのかと思うと知らない事ばかりだった。
くだらないと思いつつもついつい見てしまうのはそれだけやることがないからだった。

イルミは部屋に貼られたカレンダーを腕を組みながら見ていた。
の元に来て14日。
ふと小指の指輪に視線を落すとはっきりと”86”と刻まれていた。
残された時間はまだまだあるが、悠長にしてはいられない。
壁に掲げられているコルクボードにはイルミのポケットに入っていた指輪のメモが押しピンで留められていた。
一体どうすれば帰れるのだろうか。
ただ単に運命の人のキスで帰れるのなら簡単だと思っていたが、現実はそう簡単なものではなかった。
キスをするだけでは帰れない事実にイルミは首を傾げ、嫌な予感が脳裏を掠る。

じゃない?」

しかし、と出会ってから指輪が反応した以上、相手はで間違いないだろうと考えを改めた。
では何故キスをしても帰れないのか。
もしかしたら本当はキスでは外れないのではないか、という疑問がイルミの頭をよぎるがそもそも全てのルールが正しいかどうかも分からない。
一つ一つ確認するにもリスクのあるルールがある以上、命取りになる可能性がある。
パソコンや情報に関してギークである弟のミルキが居ればすぐにでも指輪の事や念を解除する事例を探させる事が出来るだろうが、生憎周りには誰も居ない。
頼れるのはそれこそしかいない状態でなんとしてでも帰る術を探さなくてはならない。
顎に手を当てて考えていると家計簿と教えてもらったノートの隣のファイルが気になった。
無意識に沸いた好奇心がイルミの手を動かす。

プラスチックの表紙を開くとそれがアルバムであると気がついた。
写真に写るはどこか幼く見え、今とは違いシンプルなデザインの黒いスーツを着ていたりしていた。
最後のページの方に収まっていた写真は男と写っている物が多く、どこかに行った時の記念なのだろうか写真にはフレームのデザインが施されていたりして、何処か特別感があった。
の隣で肩を寄せて笑う男が恋人なのだろうと直感で分かった。

イルミはアルバムを元あった場所に戻した後、ソファに腰掛けた。
既に恋人が居る相手が自分の運命の人というのはどういう事なのだろうか。
以前が言っていた”お互いが居て良かった”というのはどういう事なのだろうか。
鈍く光る指輪は恋人からを奪えと言っているのか。
それが後に自分の運命の人になる、そう言いたいのか。
一つ溜息を零しながらこれまた日課になりつつある昼のドラマを見ることにした。

*****

いつも同じような時間に鳴る電話が今日は鳴るのが遅かった。
電話の向こうのは何度も謝っていたがイルミには何で謝られているのか分からなかった。
仕事なのだから遅い時もあれば早い時もあるのは当然で、話によればは必ず8時間は拘束される仕事をしていることを教えてもらった。
適当に相槌をうちながらの話に耳を傾け、切りが良いところで電話を切った。
幼い頃から拷問を受け、過酷な生活を強いられていた経験上1日や2日食べなくたってどうということはない。
それを以前伝えたところえらい剣幕で怒られたのを思い出し、これが”お互いが居て良かった”ことなのだろうかと思ったがいまいちピンと来なかった。

の電話から30分程経過したところで家主が帰ってきた。
玄関の方に向かうと少し疲れているような表情が見えたが、イルミを見るなりは笑顔を作った。
すぐに着替えてご飯を作ると言うにイルミは「別に良いよ」と言うが、作ることを諦めてはくれなかった。
思えば突然現れた相手にここまで一生懸命することが腑に落ちず、イルミは珍しく料理を作るの後ろに立って見ていた。

「見てて楽しいですか?」
「全然」
「ですよね。どうしたんですか? いつもはテレビ見てるのに」
「なんとなく」
「珍しいイルミさんですね」

が小さく笑うと料理の邪魔にならないように結ばれた髪の毛が揺れる。
その後ろ姿はあまり見慣れているものではなく、まるで違う人がそこに居るような錯覚をイルミは感じた。

「あ、イルミさん。お皿取ってもらえますか?」

振り返ったの表情はやけに楽しそうで、その顔が脳に焼き付けられるような感覚がイルミの身体に走る。
が仕事に向かった後、変な事を考えたからだろうか。
もし、本当にが運命の人ではないと言うのであれば、本当に此処に居て良いのだろうかと柄にもなく考えてしまった。
以前、も同じような悩みを持っていたがその時のイルミは”で正解だと思う”と答えたが、あれから1週間経過した今、逆にイルミの方が揺らいでいた。
念の知識も無く、体力や体術もあるようには見えないし、数は決して多くはないが唇を重ねても解除がされる気配が無い。
その辺の商店街で買い物をしていそうな一般人のが本当に”運命の人”なのだろうか。

「イルミさん?」
「……何?」
「い、言え……なんかいつも以上に無表情で固まってたから。考え事でもしてましたか?」

棚から皿を取り出しながらがイルミを見ていた。
ふとイルミは思ったことを口にした。

の恋人ってどんなやつ?」

の目が見開かれ、小さな唇から「え?」という言葉が漏れた。
二人の時が止まったような気がした。
見えない圧力には苦笑いを浮かべながら「本当にどうしたんですか?」と聞くの瞳は揺れていた。


2020.03.09 UP
2020.06.04 加筆修正
2021.07.23 加筆修正