パラダイムシフト・ラブ

29

恋人はどんな奴だと聞かれての心臓は力強く鼓動を刻む。
それが痛い程に感じられたはすぐに背を向けて悟られないように務めたが、刺さるような視線が背中に注がれているのを感じた。

「どんな奴なの」

疑問形ではない問いかけに話すまでイルミは諦めてくれそうになかった。
は動揺を隠すように料理を皿に盛り付け始めた。

「会社の……元上司です」
「ふーん。今は違うの?」
「私は部署移動になって……離れました」
「でも関係は続いてるんだ」
「まぁ、そうですね。さ、出来ましたよ。お待たせしました」

話題を無理矢理変えたくては笑ってオムライスが鎮座する皿2枚をイルミに差し出した。
黙って受け取ったイルミはそれを部屋へと運び、は溜息を零しながらスプーンとグラス二つを持つ。
部屋へと運ぶとは一度キッチンに戻り、冷蔵庫の中から麦茶の入ったボトルとケチャップを取り出して戻る。
戻る頃にはイルミはケチャップもかけずにオムライスを口に運んでいた。

「ケチャップかけないんですか?」
「味にはあんまりこだわりないから。無くてもイケるよ」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
「うん。で、どうなの」

イルミの中では話は続いているようで、はケチャップを勢いよく噴射させた。

「……本当にどうしたんですか?」
「なんとなく気になっただけ。誘いもこの前断ってたし」
「そ、それは……イルミさんが今は居るから」
「オレが居たら断ってなかったって言いたいの?」
「えっと……」

気まずい雰囲気が部屋に漂う。
の表情が曇るがイルミは気にせず黙々と食べ、サラダを口に入れる。
本当に急にどうしてしまったのかと、は困惑しつつも嘘を言えばバレるような気がして素直に本当の事を話すことにした。

「上手くいってないのは……本当です」
「上手くいってないのに付き合ってるわけ? なら別れれば良いじゃん」
「か、簡単に言わないでください。もう、どうしたんですか本当に」
が前に言ってた”お互い居て良かった”って思える関係ってどんなものかなって思った」

そこで会話が途切れた。
部屋に流れる音は先週も聞いたテレビからの声で、まるで二人のことを笑っているかのように聞こえた。
ここ数日で揺れる心にイルミが気がついているのかもしれないと思った途端、の胸が痛み出し、俯いた。

に言われてオレも考えたんだよね」
「な、何をですか?」
「念が発動した以上オレはで間違いないって思ってたけど、そもそもこのルールが本当に正しい物だと信じて良いのか疑問に思った。キスを試しても念が解除されない以上本当にそうなのかって」

の心臓がドクンと鼓動した。
勢いよく顔を上げると既に食べ終えたイルミはグラスを持ちながら真っ直ぐにテレビを見ていた。
確かに何度かキスはしたが、解除には至らなかった。
しかしそれは、何かしらの条件が必要なのではないかという考えに至り今はそれを模索している最中のはずだ。
急なイルミの言葉に頭が追いつかず、わずかに震える唇が言葉を発することを妨げた。

「本当に”居て良かった”と思えるのって、離れてみなくちゃ分からないんじゃない?」
「そ、それは……でも、イルミさんは住むところが」
「まぁなんとかなるよ。寝るのはあの公園で寝ればいいし。オレも何かしらの感情を持たないと解除出来ないって仮説が本当なら試してみる価値はあると思う」
「そんな……だって、あと……」

ふとイルミの小指の指輪を見ると86という数字が目に入った。
お互いに残された時間は86日間。
それまでに何とか解除する糸口を見つけなければお互い死んでしまう。
は持っていたスプーンを置き、イルミをまじまじと見つめる。

「残り86日しか……」
「あ、着替えはの家に置かせてよ」
「86日間で……どうにかなるんですか?」
「なら期間を設けるよ」
「期間、ですか」

イルミはそれまで見ていたテレビから視線を外してを見ると人差し指を一本だけ立てて見せた。

「1ヶ月間」
「い、いっか、げつ……」
「そう。1ヶ月間、オレはその間に以外にこの指輪の念を解除出来そうな相手を探してみる。それでもオレの中でだって思うなら戻ってくる」
「1ヶ月後……私じゃなくて、別の人が見つかったら、どうするんですか?」
「んーその時考えるかな」

は絶句してしまい、言葉が見つからなかった。
イルミの表情は動かず、真剣な顔をしているように見えた。
あまりにも急で、強引な展開には瞬きすらも忘れた。

「そ、そしたら……もし戻ってきたら、残された期間は……」
「まぁ50日弱ぐらいってところかな」
「約50日……ですか」
「まぁ離れて見てお互いに良いって実感出来るなら十分な日数だろ?」

イルミの言わんとしていることは分からないでもなかった。
このまま平行線な生活を送っていて何か解決策が見えるとはあまり思えない。
の言う”お互いに居て良かった”と思える気持ちが正解に近いのであれば、一度お互いが居ない生活に戻る方が良い薬になる。
しかし、心のどこかでは引き止めたかった。
会話があって、一人暮らしには無かった楽しさに溢れた生活からまたルーチンな生活に戻るかと思うと、少しだけ怖かった。
真っ直ぐに見つめてくるイルミの大きな黒目にの不安そうな顔が映る。

「わ、わかり……ました。いつ出る予定、なんですか?」
「その辺はまだ決めてはないけど近いうちかな。そしたらだって恋人のことを考えられるでしょ」
「……出るのは……出来れば週末明けにして欲しいです」
「どうして」
「……からあげ、作るんで。頑張って、美味しいの、作りますから」
「わかった。ならそれ食べたら出ようかな」

無機質な声を聞けるのもあと2日ほどかと思うと大きなため息が漏れた。
あまり食欲が湧かず、はその日夕飯を完食することはできなかった。
来週から一人分のご飯だけで済むことを考えれば家計の財布的には嬉しかったが、居て欲しいと心のどこかでは思っていた。
一度決めたら曲げなさそうなイルミに何も言えず、その日の夕飯は静かに終わった。


2020.03.11 UP
2020.06.04 加筆修正
2021.07.23 加筆修正