パラダイムシフト・ラブ

30

週末の始まりである土曜日、その日は生憎の雨だった。
雨の日はどうも外に出る気がおきず、二人は部屋の中で静かに過ごしていた。
掃除も早々に終わらせ、残りの時間はの提案で録画していた映画やドラマを見ることになった。
二人してソファに座り、雨音とテレビから流れる音声がBGMとなりのんびりとした時間が過ぎていく。
ドラマが3話、4話と進むにつれてはゆっくりと船を漕ぎ出した。
昨日の夜、イルミから急な提案を出されこともありあまり眠れなかった代償が今来たようだった。

は寝落ちしそうになれば体制を戻し、目を擦る仕草を繰り返していた。
ひょこひょこと動く頭がチラチラと視界に入り、気になった頃には自然とイルミの口から「眠いなら寝れば?」と出ていた。
聞いているのか聞いていないのか分からない返事の後、は一瞬にして夢の中へと旅立った。
イルミに少しだけ寄りかかり、小さく開いた口から一定のリズムで息が漏れている。

「本当に寝た」

正直なところ、イルミは本当にが寝るとは思わなかった。
昨日あんな提案をしたばかりに警戒されると思ったが、は起きた後も何事も無かったかのように振舞っていた。
もしかしたら、本当は気にしていてそれを悟られないようにしていたのかもしれない。

最初こそは殺しの対象であったが、に事実を話した後に指輪が反応してしまった以上殺すわけにはいかなかった。
一時はどうなるかと思ったが、どういうわけか一緒に衣食住を共にしている。
最初は警戒心を持たれていたが、生活を共にしていくとその警戒を少しずつ解いてくれて今では身の回りの世話をしてくれる。
挙句の果てには”お互い居て良かった”と思えるようになろうと言い出した。
今まで出会った女の中で一番不思議な存在にイルミの中で疑問が尽きなかった。

じゃなかったら誰なんだろう」
「んん……」

体制を変えたいのかはくぐもった声を出しながらイルミの腕に抱きついた。
人肌の温もりに安心したのかしばらくしてまた気持ち良さそうな寝息が聞こえてきた。
こんな人殺しの温もりでも良いのだろうか。
そもそも恋人が居るのであれば週末は俗に言うデートとかをするのではないのだろうか。
しかし、イルミは自分が居るからとそれを断っていたのが腑に落ちなかった。
別に愛する人が居るんであればそいつと仲良くするのは当然のことだと思うが、はそれをしようとはしない。

「変な奴」

ぬるま湯に浸かったような生活を続けていては元の世界に帰れないとイルミは思った。
しかし、向こうに戻ればまた闇の世界での仕事が待っている。
いっそのこと一思いに念で作り出した得意の針で記憶を操作し、さっさとキスをしてもらおうかと最初は考えたがどうにも乗り気がしなかった。
今まで近づいてきた女は金や地位で釣れる程度で、一夜限りの関係が多く、その多くがその後針人間として動いてくれた。
そういう俗な行動を取らないにイルミの中で珍しい人間として興味があったのかもしれない。

あれからどれくらい時間が経っただろうか。
いい加減コーヒーが飲みたくなってきたが動こうにもがイルミの腕をホールドしており動けないでいた。
気がつけば4時間ほど経過し、陽も暮れ始め、ドラマも見終わり今は映画が流れている。
少し動くと「ん」と小さな声が溢れる無防備なにため息が漏れた。

「そろそろ離れてくれない?」
「……ん」
「コーヒー飲みたいんだけど」
「んー……」

今まで女と二人きりになればそれなりのことはしてきた。
大体の場合は妖艶な笑みを浮かべた相手の方から手が伸び、上に乗られ、頼んでもいない奉仕を受けてきた。
ところがはそういう雰囲気になるどころか呑気に寝ている。
イルミの口からは呆れて溜息が漏れる。
やはり何かしらの状況変化が必要不可欠だと感じたイルミはの寝顔を見つめる。
何かの夢を見ているのか安心しきった表情と腕から伝わる温もりに今は諦めることにしてイルミはゆっくりと目を瞑った。

*****

パジャマの上着のポケットに入れておいたスマホが震え、は目を覚ました。
テレビは見ていたはずのドラマではなく撮り溜めた映画が佳境を迎えようとしていた。
何時間眠っていたのだろうか。
ポケットに手を伸ばそうとした時、初めてはイルミの腕を抱きしめながら寝ていたことに気がつき咄嗟にすぐ離れた。
恐る恐るイルミを見ると当の本人は目を瞑って眠っていた。

「うわっ、恥ずかしっ……」

口元を拭い、よだれが垂れていないか確認しながら恐る恐るイルミに近づいた。
黙っていればカッコいいのに、喋らせると極端な性格にもったいなさを感じていたはその寝顔に思わず見惚れてしまった。
よく見れば実は長い睫毛、通った鼻筋、綺麗な唇の形に思わずドキドキした。
周りが放っておかないような容姿なのに、彼女は居ないと言われた時は驚いた。
そんなイルミの唇が一度でも自分の物と触れたかと思うとなんだか変な気分になった。
雨の日に路地で出会った突然の同居人には正直不安でしかなかったが、生活を共にする事でいろんな一面を知った。
寂しかった静かな部屋にイレギュラーな明かりが灯ったような気がした。
しかし、そんな同居人は後数日に出て行ってしまうかと思うと心が締め付けられるような寂しさを感じた。

「イルミ……さん?」

声をかけても起きる気配はなかった。
初めて見る寝顔を悪いとは思いながらもまじまじと見つめる。
白くて透き通る肌はどうやって手入れをすれば手に入るのだろうか。
同じシャンプーを使っているのに自分の髪の毛よりも艶のある黒髪が羨ましくてどうしてもそれに触れたい衝動に駆られた。
本当に短い間だったが一緒に過ごした時間は楽しくて、退屈な日々に変化をもたらしてくれた。
そんな同居人に、この家から去る前に一瞬でも良いから触れてみたいと、もう少しその顔をよく見たいと思ったは顔にかかる髪の毛に恐る恐る触れる。

「……ひぃっ!」

触れたと同時に大きな黒目がバチっと開かれ、大きな黒目にの驚いた顔が映る。
咄嗟に引っ込めようとした手を掴まれた。

「何してるの」
「いやっ、えっと」
「寝込みを襲う趣味でもあるの?」
「ち、ちがっ! っていうか起きてたんですか?!」
「うん。がオレに何かするか興味があったから」
「なっ! な、な、何もしませんよ!」
「ふーん。ならこの手は何?」

いつもの感情を映さない瞳と口調。

「そ、それは……その……えっと! イルミさんの髪の毛があまりにもその、綺麗でつい」
「髪の毛なんか触ってどうするつもりだったの」

体を離すとその分詰め寄られる。
徐々に近づいてくるイルミから距離を取ろうとするが、その距離は縮まるどころか詰まる一方。
当然掴まれている腕は離してもらえず、ソファの肘掛けまで追い詰められると逃さないと言わんばかりにイルミは片腕を肘掛けの上に置いた。
の顔にかかる長いイルミの黒髪。
どことなく妖艶な雰囲気と余裕な笑みを浮かべるイルミにの喉が鳴った。

「す、すみませんでした! 気に障ったならごめんなさい! もう触らないんで!」
「触るなら今のうちだよ。もしかしたらオレは帰ってこないかもしれないんだからさ」

早鐘を打つの心臓と目のやり場に困り泳ぐ視線。
その動きを制御するかのように優しい声色で「」と囁かれると、ドクンと体が疼いた。
こんな経験が初めてではないがいつもと違うイルミの態度に体が思わず反応してしまう。
少し近づけば触れてしまいそうな唇の距離には生唾を飲み込んだ。
こんな気持ちで、こんな形で重なりたく無かった。

「オレも男だから、迂闊に近寄られたらそういう意味って捉えるよ」
「あ、あの、あの、イルミさん! 私は別に、本当にそんなつもりじゃなくてですね!」
「ならどういうつもり」
「本当に下心とかじゃなくて……綺麗な髪もそうですが顔にかかって、邪魔そうだったので! 退かしてあげようと思っただけです!」

コロっと落ちるのは簡単だ。
それでも、そうなりたくないと思ったのはの中で色々な問題がクリアになっていないから。
”駄目”という意思を宿した瞳でイルミを見るが、その意思は伝わっていなさそうだった。
優しく頭を撫でられ、綺麗な指先がの輪郭を撫ぜると体に緊張が走る。
イルミの人差し指がの緊張している唇をゆっくりと焦らすように撫でる。
もう駄目かと思い、唇を噛み締め力強く目を瞑る。

「そう。なら終わり」

そう言うとイルミはパっとの手を離し、体も離した。
突然始まったそれは当然終わりを迎え、は混乱し、呆気にとられた表情を浮かべた。

「そんな顔しないでくれる? もしかして期待したとか?」
「きっ……たいなんてそんな!」
「でもこれで分かっただろ。無闇に男に近づくと喰われる。これに懲りたら知らない男には近づかない方が良い」
「……あ、は、い……」
「オレが居ない間に知らない男を招き入れたら駄目ってこと。分かった?」

ポンとの頭の上にイルミの手が乗る。
「ね?」と念と押され、は小さく無言で頷いた。
そんなに納得したのかイルミは「やっとコーヒーが飲める」と言ってキッチンへと向かった。
その後ろ姿を見ながらは胸に手を当てた。
まだドキドキと鼓動する心臓に眉を寄せながら、自分に起こった事を改めて思った。
いつもなら”彼氏が居るから”と振り払える腕が振り払えなかった。
何故自分は途中で諦めてしまったのか。
その気持ちに気がつくのはまだ少し先のことだった。


2019.04.17 UP
2020.06.04 加筆修正
2021.07.23 加筆修正