パラダイムシフト・ラブ

37

が仕事に行った後、一人取り残された部屋でイルミは指輪を見つめた。
昨日は85だった数字は今日は84になっていた。
数字がまた変化し始めたことで出て行かなくて正解だったと考えたイルミはコーヒーを飲みながらテーブルに置かれた鍵と一枚の紙切れに視線を移した。
家の中には居ては退屈だろうということで置いてった1000と書かれた紙の方を手に取ってみた。
「気分転換でもしてください」と置いていったそれはの国の金だと言う。
気分転換と言われてもの国の文字が読めないため、何処に気分転換をしに行けば良いのか見当もつかないイルミは紙幣を触りながらふと家計簿と教えてもらったノートが気になった。

綺麗に並べられたノートとファイル達の間から家計簿を引っ張り出してページをめくる。
1ページずつ捲りながら日付と思われる数字を追いかけた。
数字がプラスになる日は1日しかなく、それ以外はマイナスを辿る収支を見ながらイルミは何故は見ず知らずの人間にここまで金を使えるのか理解が出来なかった。
単純にが優しすぎるだけだからだろうか。
優しすぎる以外にもお人好しで、好奇心旺盛で、それでいて鈍いところがある。
でもそのおかげで今はこうして雨風を凌いで暮らしている。
普通、見ず知らずの人間に自分の財産を使ってまで尽くすだろうか。
それがもし自分だったら、と考えたら答えは簡単だった。

「やっぱりなのかなぁ」

その問いには誰も答えない。
考えても答えは出ないので、イルミは早々に朝の家事を終えて外に出てかけてみようと思い、立ち上がった。
ゴミ出しも手馴れたもんで、すれ違う住人に無愛想ではあるが挨拶をするのも慣れた。
洗濯も乱雑ではあるが干し終わり、日課になっていたワイドショーもきっちり見る。
今日は誰が死んだ、誰が自殺した、交通事故があったと報道があるたびに自分に頼めば良いのにと思ったが、それはに反対されていたのを思い出す。
この世界はなんて不自由なんだと思いながらイルミはシャワーを浴びに脱衣所へと向かった。

行き交う人々から視線を受けるがイルミはそれを全て無視した。
黒髪が靡けば女子が振り返る。
男とすれ違えば身長を確認されるかのように振り返られる。
外に出て思ったことは意外に周りの人間達は背が低い事だった。

何となく、金曜日にと行った店が気になりそこまで歩いてみることにした。
スーツを着た人やオシャレな格好する人達が増えてくるなか、イルミはシンプルだった。
TシャツにGパンと可もなく不可もないその格好はに指定された物。
出会った頃に着ていた服は目立ちすぎる、と言うことで外に出る時に着る服は事前にコーディネートされていた。
店に近づくとがマスターと呼んでいた男性が立て看板を拭いている姿が見え、立ち止まってしばらく見ているとマスターはイルミに気がついた。

「おや? イルミさんじゃないか。どうしたんですか?」
「何処行けば良いか分からないから来ただけ」 「そうでしたか。は……そうか、仕事か」
「うん」

一問一答な会話だったがマスターは嫌な顔一つせずイルミと話してくれた。

「何してるの?」
「昼はカフェをやってるので、それの準備ですよ」
「ふーん。これで足りる?」

イルミはポケットからが置いてった1000円札を取り出し、マスターに見せた。
少し驚いた表情をしながら「開店前だけど、まぁ良いか」とマスターは零した後、イルミを店内へと招いた。

*****

夜の雰囲気とはまた違った雰囲気を持つ店内でイルミは大人しくカウンター席に座っていた。
出されたコーヒーを一口すすると「家のより良い」と思わず素直な感想が漏れ、それを聞いていたマスターは笑った。

「イルミさんはと暮らしてるのかな?」
「うん。なんだっけ。ニート?」
「ニート? 生活費はが?」
「うん」
「ふーむ。こっちでは仕事をしていないのかい?」
「うん。この世界では出来ない仕事だから無理」

マスターは一瞬困惑の色を示した。
イルミがいましたが言った”この世界”という言葉が引っかかった。

「イルミさんは……以前はどんな仕事を?」
「公務員の雑用」

真顔で感情を出さない表情のイルミは少し不気味で、これ以上仕事の話はしない方が良いと察したマスターは咳払いを一つする。
話題を変えるためにサンドイッチは食べるかと聞いてみたがイルミは首を横に振った。

「オレはの料理しか食べないから」
「あの娘も料理するようになったのかぁ。大した進歩だ。ならコーヒーは?」
「うん」

空になったカップを前に出すとマスターは喜んでそこに漆黒のコーヒーを注いだ。
鼻をくすぐるコーヒーの匂いにイルミは少しだけ目を細めて飲み始めた。
不思議な雰囲気を纏うイルミにマスターは興味があるのかとの関係や、日頃何をしているのかを質問した。
指輪の事だけは隠しながら話すイルミの話をマスターは親身になって聞いてくれた。

「もし仕事を探してるんであれば、本命が見つかるまでウチで働いてみるかい?」

その言葉を聞いてイルミは首を傾げながら「オレに出来ると思うの?」と率直な意見をぶつける。。

「出来るか出来ないかはやってみないと分からないが……行く宛もない時にに拾ってもらったんだろう? 恩返ししてやれば喜ぶと思うよ」
「恩返し、ねぇ」
に秘密にしておきたいなら黙っておくよ」

マスターはニコっと笑って人差し指を唇に当てた。
帰り際にイルミは明日から来ても良いかと聞くとマスターは「もちろん!」と快諾し、制服を用意しておくと言った。

イルミは帰路に着きながら指輪に視線を落とした。
トントン拍子に話が進み、稼ぎ口が運良く見つかってしまった。
日中はが仕事で家に居ないため確かに暇で何もする事はないが、に相談せずに働き口を決めて良かったのかどうか考えた。
やはり一度に相談するべきだったのだろうか。
マスターが言ったようにもし自分の稼ぎで何かを買ってやればは喜ぶのだろうか。
その時、初任給で将来ゾルディック家の当主として期待されるまだ幼かった弟に大好物だと言うチョコをサプライズで買ってやった時のことをふと思い出した。
あの時は相当嬉しかったのか1週間は喜んでいた姿を思い出し、あれと似たような現象が起こるのであれば向こうの世界に戻る前に何か一つくらいくれてやっても良いだろうと自分の中で納得し、マンションへと向かった。


2020.06.14 UP
2021.07.24 加筆修正