パラダイムシフト・ラブ

38

次の日、イルミはマスターに言われた通りの時間に店に来てみた。
少しだけ明るい店内でマスターはガラスを拭きながらイルミを待っていて、イルミが入ってくると「おはよう」と笑った。
イルミはマスターの手招きについていくと、小さな部屋へと案内された。
そこにはロッカーが4つと小さなテーブルと椅子があり、休憩室だと紹介された
いくつかの扉には名前のようなシールが貼られており、マスターは何も貼られていない扉を開けると「此処がイルミ君の場所だからね」と指差した。
ロッカーの中には白いカッターシャツと黒のベスト、黒のスラックスと前掛けの黒いエプロンが綺麗に折りたたまれており、まずはそれに着替えるように言われた。
イルミがシャツに手を伸ばした時、マスターは「あと、これがシューズね。もし合わなかったら言ってね?」と滑り止めが施された革靴を手渡してくれた。
着替えてみると、自分の世界のカフェの店員が着てそうな制服で、こういうのは何処も一緒なんだなと変なところでイルミは感心した。
まさか闇の仕事をする自分が昼の仕事をするとは思っていなかった。
イルミは鏡に映る自分の見慣れない姿に首を傾げた。

そのままカウンターに出るとマスターは「男前がさらに男前だ」と褒めてくれた。
飲食店では清潔感が大事とうことで、勤務中は髪を結ぶように髪ゴムを渡された。
グラスの場所やオーダー表を説明され、まずは客が来たら「ご注文は?」と聞くように指導されるも今までそんな事を言った事もしたことなかったイルミにとっては非常に面倒くさいものではあったが、これがの為になるのでと思うと意外にもすんなり暗記する事が出来た。
一通りの事を覚え、開店時間が来るまでの間、イルミは椅子に座ってマスターのコーヒーを飲みながらその時を待っていた。

*****

は新しいプロジェクトに追われ、会議に引っ張りだこになっていた。
なかなか自分の仕事に手がつけられず、当然の事ながら残業を強いられた。
定時の時間が過ぎてから約1時間半が経過したところでイルミに電話を入れておこうと思ったは席を立ち、休憩室へと向かう。
通話履歴から自宅の電番号を呼び起こし、電話をかけると数コールしてから無機質なイルミの声が聞こえてきた。

「今日はちょっと、遅くなりそうです」
「冷蔵庫にあるのを適当に食べるよ」
「そうですね。それが良いかもです。今週は結構慌ただしいかもしれないんです」
「良いよ別に。そういうこともあるでしょ」

の口調は周りが聞けば同棲している恋人にでも語りかけるような柔らかい口調だった。
電話を切った後、自動販売機でアイスココアを買うと背後から「珍しく残業?」と声をかけられ、咄嗟に振り返ると会いたくなかった相手がそこに居た。

「珍しく残ってる人が居るから誰かと思った」
「大きい案件が入ったので、今日から残り始める人は増えるかもですね。宮前さんも今日は遅いんですか?」
「まぁね。部下がクライアント怒らせたからそれの後処理」
「大変ですね」
「部下を守るのは上司の役目だからね。はどう? 最近」

宮前は休憩室の丸椅子に腰掛け、アイスココアを握りしめるを見ていた。
人の良さそうな笑顔に思わずの眉間に皺が刻まれる。
その笑顔は以前イルミが扮した宮前の笑顔そのものだった。

「ねぇ。誰と電話してたの?」
「え?」
「今さっきだよ。誰と電話してたの?」

背中に一筋の冷や汗が流れた気がした。
は誤魔化す様に「泊まりに来ている親戚ですよ」と笑って答えた。
今すぐこの場から離れたくて「じゃ、私はこれで」と休憩室を後にしようとしたが、「待ちなよ」と止められる。
その口調がいつもの柔らかいものではなく、獲物を逃さないような威圧的な圧を含んでいるように感じた。
宮前はゆっくりと立ち上がり、に近づく。
何となく嫌な気配がしたは一歩後ずさりながら「今は就業時間なので」とはぐらかすが相手は見過ごしてくれない。
少しずつ下がっていくと背中に自動販売機が当たり、宮前の手がの顔の横につく。
逃げられない距離とはこの事か、とは身の危険を感じた。

「み、宮前さん。こ、此処会社ですよ?」
「親戚なんて嘘でしょ? は嘘つくときって笑うけど、右の口元だけ上がらないんだよ。新しい男と住んでるんじゃないの?」
「ち、違っ……います!」
「最近お互い忙しかったからシてないもんね」

デリカシーのない発言には目を大きく開き、宮前を睨んだ。

「本当は俺意外じゃ満足出来ないくせに」
「ふっ、ふざけないで」

勘違いも腹ただしい程の言葉には言いかけた言葉をグっと飲み込んだ。
その時、脳裏にイルミから言われた”遅い”という言葉がよぎる。
は宮前の肩を力強く押し、勢いに任せて離れた宮前の頬にアイスココアを握りしめた手で一発を入れた。
一瞬の出来事で宮前は現状を理解出来ていない様子でを見つめていたが、こんな大胆な行動に出た自分自身にも驚いていた。
怯んでいては相手に舐められる。
は肩で息をしながら「言って良い事と、悪い事がありますよ!」と、それだけ吐き捨てて休憩室から出て行った。

自分の席に戻っただったが仕事が全く手につかず、早くこの場所から去りたかった。
溢れそうになる涙を堪えながら、1通だけメールを送り、パソコンの電源を切った。
駆け足でエレベーターに乗り込み、外に出た後に会社のビルを見上げるとまだ営業部のフロアには電気が灯っていた。
ふんと鼻を鳴らしては駅へと走って向かった。

*****

「ただいま……です」
「おかえり」

家に着くと決まってイルミはひょこっと部屋から顔を出してを迎えてくれる。
何でもないいつも通りの無表情なのに、その顔を見た途端、の中で安心感が溢れて思わず涙が出そうになった。
それを堪えながら、いつも通りを務めながらは「切り上げて帰って来ちゃいました」と言って部屋に入った。
何も聞いてこないイルミに安心し、クローゼットを開け、鞄を仕舞ってからジャケットをハンガーにかけているとイルミが「なら明日はもっと遅いってことか」とテレビを見ながら言う。

「かもしれませんね」
「忙しいの?」
「急に大きな案件が入ってきたので……ちょっと忙しくなりそうですね」
「ふーん。変な奴多いから気をつけた方が良いよ」
「本当に遅くなる時はタクシーで帰りますよ」

いつも通りの何気ない会話が出来ている事に安心していると、不意にイルミが「なんか変」と言う。

「何かあった?」
「……無いですよ」
「いつものと違う気がする」

いつもの私ってどんなだっけ、とふと考えてしまった。
この問いに対して何て返すのが正解なのか見つけられなかったは黙ってしまった。

「何かが違う気がする。別に隠さなくて良いから」

この時のイルミの声がやけに優しく感じ、それまで堪えてきた涙が閉じた瞼をノックする。
開いた時には我慢出来なかった涙が飛び出した。

「どうしたの?」
「う、ふぅっ……」

涙を拭おうとするとアイメイクが崩れてしまう。
唇を噛み締め、はその場にへたりと座り込むとイルミが側に立った。
イルミの目には嗚咽を堪えて泣くの姿は弱々しい生き物に映って見えた。
仕事柄ターゲットの配偶者が泣いているのはよく見てきたが、何かに耐えるように泣く人の姿は見たことなかっただけにイルミはどうして良いのか分からなかった。
どうしたのか聞いてもは「らいじょうぶれす」と言葉になっていない言葉を漏らして話そうとしない。
泣いている理由を教えてくれないに対してイルミは眉を寄せた。
どうして自分に話してくれないのか。
それはまるで、自分に隠し事をされているみたいで気に入らなかった。

「泣いてちゃ分からない」
「な、なんれも……ないれす……」
「何でもないなら泣かなきゃいいじゃん」

鼻をすすりながら真っ直ぐにイルミを見る。
イルミの少し怒っているような表情には目を伏せると、イルミの指が溢れた涙をすくう。

「何かあったんでしょ」
「……うぅ」
「オレには言えないこと?」

黙ったままで口を固く閉ざしているに対してイルミは溜息を吐いた。
もしかしたらと思いイルミは小さな声で「会社の人間?」と聞いてみた。
少し間を置いた後には小さく頭を動かしたて頷いた。
「もしかしてあいつ?」と聞くとは黙ってしまった。
痴話喧嘩に首を突っ込む趣味はさらさらないが、一緒に住んでいるは何かに耐えるように泣いている。
ふつふつとイルミの中でふつふつと保護欲が芽生えようとしていた。

「殺してあげようか?」

はビクっと体を震わせた後、ゆっくりと顔を上げてイルミを見る。
涙で濡れた目がイルミを真っ直ぐに見つめ、は小さく「それは……らめれす……」と無茶な行動はして欲しくない事を伝える。
このとき、イルミには傷つけられたのはなのにどうして相手を庇うのか分からなかった。
それが理解出来ないイルミは「ならどうしたいの?」と問う。
少しだけ落ち着きを取り戻したはメイクが崩れるのを承知で目元を袖で拭い、はっきりと力強く「もう、終わりにしたいです」と答えた。


2020.06.15 UP
2021.07.24 加筆修正