パラダイムシフト・ラブ

39

昨日あんな事があったからなのか、通勤の電車に揺られている間、は忘れかけていた宮前と付き合い始めた当時の事を思い出していた。
営業としてなかなか目が出ないを気にかけてくれたのは宮前だった。
何度も営業に同行してくれて、ロープレもしてくれた。
の苦手な部分や、営業の駆け引きも教えてくれた。
初めて取れた受注に二人で喜び、それから3ヶ月程経った頃時に宮前から告白されてこの関係が始まったのだった。
生まれて初めて言われた”本気で好きなんだ”という言葉に恥ずかしくも涙し、快く返事をしてから1年程で状況が変わった。

が作ったプレゼン資料が注目されるようになり、程なくして広報部へと移動となった。
営業資料や、展示物、外注で受けるデザイン案件を託され、現在は社内で売れっ子デザイナーとして活躍している。
宮前も営業力から部下を持つようになり、今では部長として営業部を引っ張っている存在になる。
お互いに時間が合わせ辛くなり、会える頻度も徐々に減っていった。
どこですれ違ってしまったのか。
当時程愛の囁きは減り、形式張ったような言葉は体を重ねる時に言われるだけとなった今、もうあの時のような熱は無いに等しいというのはお互い感じていただろう。
ぼんやりと考えていると、会社の最寄り駅に着き、は慌てて降りた。

あの日以来、宮前からの接触は無く、ただ仕事をこなす日々だった。
それからというもの、指輪のカウントは順調に進み、金曜日の夜には79を刻んでいた。

「あれから止まることなく進んでますね」
「うん。の方は進んだの?」
「うっ……ま、まだです」
「早くしたら? また泣かれるのも困るから」
「チャ、チャンスを伺っているんです!」
「ふーん」

仕事帰りに買ってきたシュークリームを二人で食べながらそんな話しをする。
コンビニスイーツランキングで1位に輝いたそれは評判通りの甘さで、気持ちを少しだけ浮上させてくれる。
味を楽しむとは対象的にもくもくと食べるイルミはあっという間にそれを胃袋の中へ収め、空になった袋をテーブルに置いた。
「もっと味わいましょうよ!」と言うと「既製品はどれも同じ味がする」と、お坊ちゃんな発言には笑った。
そんな和やかな雰囲気を揺るがすようにイルミは一言「思ったんだけどさ」と珍しく切り出した。

「オレが元の世界に帰るとしたら、も一緒に来れるかな」
「え?」
「この前が戻るのはオレだけなのかって言てて、ちょっと気になったんだよね」

言葉を切ったイルミは一呼吸を置いて言った。

「オレは指輪の念でこっちに来たけど、言われて気がついたけど帰る時もオレだけなのかなって」
「こっちに来たのはイルミさんだけみたいですなら……ふ、普通はそうなんじゃないんですか?」
「選択出来るならどうする? 一緒に来たい?」

唐突な質問にの目が点になり、聞かれた言葉が脳の中で反復する。

「来たいって…‥わ、私が……ですか?」
「うん。他に誰が居るのさ」
「私しか、いません、けど。で、でもそれって……あ、ありえる……んですか?」
「さぁ? オレが来たんだからも行ける可能性もあるんじゃない?」

思わず言葉に詰まっているとイルミは首を傾げながら「どうなの?」と問うが、は答えに迷った。
実際にそんな事があり得るのだろうかという疑問と、もしこの世界から自分が消えたらどうなるのだろうかという不安がふつふつと沸き起こる。
確かに自分の生活には嫌になる部分はあるが、だからと言ってこの世界の生活を無責任に捨てても良いのだろうか。
それにはイルミのような特殊な事が出来るわけではない普通の一般人で、何の取り柄もない自分がイルミの住む世界に行ったところでやっていける自信が無かった。
だからと言って決して行きたく無い訳でなく、その気持ちをどう伝えれば良いのかは迷っていた。

「正直運命の人と出会えるってのは何かのイタズラだと思ってた。ルールも滅茶苦茶だしね。絶対嘘だろって思ったけど命がかかってる以上やる事やってさっさと帰りたいって思ってた」
「そ、そんな感じ……でしたね」
「おまけに恋人が居るって知って余計に面倒臭いって思った。しかもすぐ人を信じるし、お人好しだし、無防備だし、男経験少なそうだし、料理はまぁ悪く無いけど……すぐ死にそうな弱い人間じゃん」
「待ってください……色々と貶してませんか?」
「事実だろ? でも、って不思議で面白いんだよね。こっちの世界は正直やる事無いからつまんないけど、は面白いって思う。仕事の話しても嫌がらないし、こっちの世界に興味ありそうだし。普通オレのこと疑わない?」

「オレの周りには居ない感じだから変わってる気がする」と言われ、今までの自分はそんなイメージだったのかと少な必ずはショックを受けた。
もイルミと出会った当初は驚きの連続で怖い存在なのかもしれないとは思ったが、一緒に暮らすうちにそのイメージは少しずつ変わっていった。
言葉はストレートだがマイペースだったり、男達に襲われそうになったところを助けてくれたり、なんだかんだ言って優しい部分もある事に気づき始めた。
最初はこの生活の行き先が不安だったが次第に楽しくなり、いつしかにとって安心出来る存在へと変わっていったのは間違いではない。
そんなイルミからいざ”来たいか”と聞かれると、本気で悩んでしまう。

はこの指輪の効果が本当に”運命の人との出会い”なのかって事を気にしてるかもしれないけど……」

珍しくイルミは言葉を区切った。

「正直今のオレはどうでも良い気がしている」
「え? どうでも良いんですか?」
「うん。この際何でも良いかな。が運命の人だろうがそうでなくても、がオレの世界に来たいって思うなら」
「思う……なら?」
「オレは歓迎する」
「歓迎……ですか? 私、何も出来ませんよ?」
「うん、知ってる。だからがオレの世界に来たいって言うなら一緒に来れば良いし、ウチに住めば良いよ」

は「部屋ならいっぱいあるから」と簡単に言うイルミに驚きを隠せなくて口が開いてしまった。
行ったところで足手まといになるのは明白で、迷惑をかけるのが目に見えているのに、イルミのさも当然というような口ぶりにの中で自然と嬉しさがこみ上げ、少なくとも嫌われていなくて良かったとは思った。

「で、でもご家族が何て言うか……拒絶とか、されませんかね?」
「何とかなるんじゃん?」
「な、何て説明するんですか……?」

突然連れてきた女をイルミは家族には何と紹介するのだろうか。
ちょっとした好奇心に擽られて、はイルミの答えを怖さ半分興味半分で待った。
少し考えるような仕草を見せたあと、イルミは「秘密」とだけ答えた。
面白くない答えには何故と詰め寄ると逆にイルミから「何て紹介して欲しいの?」と聞かれる。
逆に聞かれるとは思わず油断していたは頭の中で飛び交う”関係”に思わず顔を赤くした。

「顔赤いけど何想像してるの?」
「なっ、何でもないです! 聞いた私がバカでした!」

意地悪さているのが分かったは拗ねるように顔を背け、この話題から逃げたくてソファから立ち上がろうとしたが、呆気なくソファに戻される。
元の位置に戻ってきたにイルミは何時もとは違う少し楽しそうな声で「やっぱりって面白いよね」と言う。

「からかわないでください!」
「何が起こっても可笑しく無い状態なんだから、選択を迫られた時の為に考えておいてよ」
「わ、わかり……ました」

そう言われては何も言えなかった。
実際もしそんなことが起こったら自分はどんな答えを出すのだろうか。
小さなため息を漏らした後「コーヒー淹れますね」と言うに対してイルミは「うん」と答えて解放してくれた。
ゆっくりと立ち上がったを見ながら最後にイルミは「あ、そうだ」と言う。

「オレ、が屋敷に居れば退屈しないで済むと思うんだよね」
「え? えっと……それは……」
「それだけ。コーヒー濃いめでよろしく」

そう言ってイルミはから視線を外した。
今日のイルミはどうも調子を狂わせる事を言うもんで、また体が熱を持ち始めるのを感じながらはキッチンへと向かった。
その後はまともにイルミの顔を見れず、会話もそこそこでその日の夜はイルミの言葉が頭から離れずなかなか寝つけなかった。
は少しだけ期待してしまっている自分の心に蓋をしようと布団を頭まで被って寝ることにした。


2020.06.16 UP
2021.07.24 加筆修正