パラダイムシフト・ラブ

41

自分の気持ちを認めてしまってからのはまともにイルミと目を合わせることが出来ないでいた。
気持ちを悟られまいと振る舞う姿はどこかぎこちなく、笑顔も若干苦笑いになる。
なんとか1日を乗り切り、イルミが風呂に入ったところでは大きな溜息を吐いた。
正直に言うと自分が抱えている感情に戸惑いがあった。
嫌われていないのは分かるがイルミがと同じ感情を持つとは到底思えず、この感情をどうする事が正解なのか分からなかった。
もしこの感情を伝えてしまったら、この関係はどうなるのだろうか。
どこまでもマイペースなイルミのことだから表情を変えずに”あ、そう”だけで終わるかもしれないが、嫌悪感や邪魔だと思われてしまったらと思うと不安だった。
ずっと側に居られるわけじゃない関係には机に突っ伏した。
一体自分はどうなりたいのか。

「どうするかなぁ……」

彼氏が居る身で他の人に気持ちが他の人に移るなんて思わなかっただけに心が複雑になっていく。
浮気なんてありえない。
そう思っていたが、体の関係は無いにしても今自分がしていることは限りなく浮気に近いのではないだろうか。
優柔不断な自分に対しもう一度ため息を吐くと、脱衣所のドアが開く音がした。
遠くの方で電気ポットのスイッチが押された音が聞こえた。
ゆっくりと顔を上げて振り返ると首にかけたタオルで髪の毛を拭いているイルミと目が合った。
体が急にこわばり、すぐに視線を外すとイルミは足音を立てずに自室へと入ってきた。

「なんか今日変だね」

ソファに座るなりイルミはを見ながらそう言った。

「え? そ、そうですか?」
「うん。気付いていないの?」
「いつも通り……かと」
「ふーん」

黒い目がの心を探るように見つめてくる。
ここで逃げたら”はい、そうです”と言っているようなものなので、はその場から動けなかった。
お互い無言で見つめ合っていると、先に視線を逸らしたのはイルミの方だった。
ゆっくりと立ち上がってキッチンの方へと向かうその背中をが目で追いかけながらやはり伝えるべきなのだろうかと考えた。
悩んでいる間にイルミはマグカップ2つを持ってくると、その一つをに差し出した。

「ありがとうございます」
「うん」

暖かいコーヒーの匂いとさりげない優しさには小さく笑った。
いつもの定位置に座るイルミと
本当にの”イルミに対する好意”に反応して指輪のカウントが進んでいるのであれば、イルミを意識して過ごした今日1日でどれくらいカウントが早まるのかが気になった。
ゆっくりとカップに口をつけるとイルミが一言「そういえば」と言った。

「会社のアイツはどうするの?」
「え? どうするって?」
「カウントが早まった以上もさっさと邪魔な者は排除した方が良いと思うんだけど」
「ま、ま、待ってくださいよ。これからカウントが早まるとは限らないですし、それに私まだ行くとは言って」
「来たくないの?」

間髪入れずに言葉をかぶされは口を閉じた。
どうして今それを聞いてくるのか。
頭の中で言葉を探しながらゆっくりと「そういうわけじゃ……」と言うと、イルミは首を傾げながら「邪魔な存在がいるから決断出来ないんじゃない?」と言う。
それも一理あるが今の生活を捨てる覚悟が昨日今日で出来るわけがなく、それよりもも一緒に行けるという保証はない。
それをイルミに伝えると少し考えた後に「でも邪魔な存在だろ?」とあっけらかんとした表情で言う。

「判断が遅いと命取りになるよ」
「な、なんかイルミさんが言うと本当に命の危機を感じます」
「だから、はい」

イルミはテーブルに置かれたのスマートフォンに手を伸ばし、に渡した。
この行動がどういう意味なのか分からず受け取ったはスマートフォンとイルミを交互に見た。
これで一体何をしろと言うのか。
真意を聞こうとした時、イルミは薄っすらと口元だけで笑った。

「アポ取って」
「え?」
「だからアポ。アポイントメントってニホンには無いの?」
「いや、あります、けど。だ、誰……の?」
にとって邪魔になってる奴、って言えば分かるだろ? 今週の金曜日で良いよ。次の日仕事があるとやりにくいだろ?」

のスマートフォンを持つ手が少しだけ震え、課せられたミッションに喉が鳴った。
別れ話をするためのアポイントメントを取れと言うイルミの顔は少し楽しそうに見えた。
決着をつけないといけないし、つけたいと思っていたが急なことでは怖気付いていた。
そんなの背中を強引に押すようにイルミは「早く」と言う。

「い、今、ですか?」
「うん。じゃないとは後回しにしそうだし。こういうのは早めに排除しておくのが良いから」
「排除って……え? ほ、本気ですか?」
「オレはいつだって本気だよ」
「き、金曜日、ですよね」
「次の日仕事で平然としてられるなら月曜日でも良いんじゃない?」
「き、金曜日が良いです!」
「ならそうして」

なんとなくイルミに乗せられている気はしたが、イルミが居なければ永遠とこの関係を続けていたかもしれない。
唇を噛み締めながらいつも連絡を取り合っていたアプリを開くが、キーを押す指がなかなか動かない。
その間イルミは黙ってコーヒーを飲みながらを見つめていた。
まるでメッセージを送るまで監視しているかのように。

「あ、そうだ。場所はあの店にしなよ」
「あ、あの店……って?」
「この前連れてってくれた店。顔が多少聴く店の方が万が一トラブルが起こったとしても対処してくれるでしょ」
「そ、そんな場所で話せませんよ! マスターには迷惑かけられないし……」
「良いからそこにして。家から近いんだから、なんかあったら逃げて帰ってくれば良いし。それに、オレも場所知ってるから」
「……うーん」

何故イルミがそこまであの店を推すのか分からなかったが、はしぶしぶといった感じで文面を打ち始めた。
時間はかかったがなんとか食事に誘う文を打ち終えると緊張を解くためにはゆっくりと息を吐いた。
送信ボタンを押し、相手に送信されたことを見届けるとは「送りました」と送信画面をイルミに見せると満足したのか頷いていた。
いつもメールはすぐ読むような相手ではないが、この時ばかりは違うらしく、送ってから間もなく相手がメッセージを読んだことを知らせるマークが表示され、の気持ちが焦りを見せる。
どうせ見ただけで返事なんてすぐ来るわけがない。
そう思っていたのも束の間、画面の明かりを消した途端にスマートフォンからメール受信音であるベルの音が鳴った。

「へ、返事が、来ました」
「へぇ。何て?」
「今、見てみます」

もう一度スマートフォンの画面ロックを解除し、アプリを立ち上げるとが送ったメールの返事がやはり来ていた。
返信は短い言葉で”分かった”とだけ、綴られており、それをイルミに伝えるといつもの抑揚のない声で「金曜日が楽しみだなー」と言うが表情は少し楽しそうに見えた。


2020.07.07 UP
2021.07.25 加筆修正