パラダイムシフト・ラブ

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夕飯も食器を片付けた後は二人でニュース番組を見ながらコーヒーを飲む時間がにとって一番落ち着ける時間だった。
また今日も1日、無事に終わりを迎えようとしている夜の9時。
1日の出来事を紹介するニュース番組をぼんやりと二人で観ながら「最近犯罪のニュースばっかりですね」とが言うとイルは「どこも一緒だよ」と言う。
誰が殺された、誰が捕まった、そして誰が悪いのか。
物騒な事ばかりが起こっているこのご時世には思わず「犯罪なんかしてどうするんでしょうかね」と呟いてしまった。

「……そう言えば、イルミさんって警察のご厄介とかにならないんですか?」
「ならないよ。なったとして別に何も無いと思う」
「え? 何でですか?」

まさか警察からも恐れられる程の人物なのではないかとう予想がの頭を過ぎる。

「裏、だから?」
「裏?」
「警察関係の依頼が無いわけじゃないから」
「黙認……されてるって事ですか?」
「手を汚したくない事や出来ない事をしてるわけだからオレらみたいなのは貴重なんじゃない? 特にウチは結構有名みたいだし」
「有名って……怖がられないんですか?」
「観光スポットになってるぐらいだからそうじゃない?」

暗殺家業の家が観光スポットとはどういう事なのだろうか。
の頭の中で大きな門や立派な屋敷が想像される。
もしかしたら想像している以上にイルミの世界では暗殺家業は受け入れられているのかもしれないと思ったは複雑な心境になった。
誰に教わるでも無く、人の命を奪うことは決して許される事ではないし、間違っても絶対にしてはならない事であるのは”常識”なのだが、イルミの世界ではそれは受け入れられているらしい。
住む場所や環境、考え方や育った文化の違いによって”常識”は変わるが此処まで違うと自分が向こうに行ったところでやっていけるのか不安になった。
不安になったことではすぐにハっと気がついた。
向こうに行った時の自分を想像していたことに自身驚いているとイルミが「また変な顔してる」と言った。

「し、してませんよ!」
「心配しなくてもオレは捕まらないから大丈夫。今日観た映画のような下手くそじゃないし、仕事だからコイツみたいに自分から自首とかもしない」

イルミはテレビで流れているニュースを顎で指すと、付き合っていた女性から別れを告げられ、納得出来なくて殺人を犯してしまった男性の報道が流れていた。
凶器は包丁で、自宅からわざわざ持ち出して女性の部屋に押し入ったらしい。

「そもそもオレは操作系だから針を挿したら終わり。あとは勝手に死んでくれるから」
「それ気がついたら死んでた、みたいなやつじゃないですか」
「なかなか便利なもんだよ」
「挿される方はたまったもんじゃないですね」

イルミとの出会いを思い返しながらはコーヒーを一口飲んだ。
ビリビリと身体で感じた恐怖は初めてであの時の感覚を言葉で表すのは難しい。
イルミのターゲットとなった相手もそんな気持ちになったのだろうか。
ならいっその事一思いに針を刺された方が楽なのかもしれない。
ぼんやりと考えていると今度は芸能人のニュースへと番組のコーナーが変わった。

「同業者の方々とは……交流ってあるんですか?」
「まぁそこそこは。同業者からの依頼だってあるから」
「はぁ……なんて言うか本当に映画みたいな世界ですね」
「オレはあんな下手くそじゃないから」

よっぽど今日観た映画は”殺しの技術”に関して不満があるらしい。
映画なのだから実際に行われている事とは違うと何度も言ったのにイルミにとっては不満がてんこ盛りらしい。

「やっぱりには本当の暗殺っていうのを見せた方が良いかも」
「いやいやいや! 私が現場に行ったら死んじゃいますよ!」
「……確かに。あんなへなちょこなパンチじゃすぐ死ぬかもね」

イルミは「どうしようかな」と呟きながら背もたれに背中を預けてを見る。
じっと見つめてくる視線に耐えきれなくなったは少し視線を逸らし、その瞳を見ないように努めた。
腕を組みながらを見る大きな目がゆっくりと瞬きをした。

「そうだ」
「な、何ですか」
も念を覚えれば良いんじゃない? って言うかオレの運命の人なら覚えられるんじゃない?」
「は? ね、念を……ですか?」
「うん。じゃないとあっちに行ってもすぐ死ぬよ?」
「ま、まだ行くとは……」
「あれ? 来ないの?」

キョトンとするイルミの顔には眉を寄せた。
どうやらイルミの中ではも一緒にイルミの世界に行く事になっているらしい。
そんな大事な事を1日や2日で決められるわけがなく、は思わずため息をつきながら「良いですかイルミさん」と口を開いた。

「確かにイルミさんの世界には興味もあるし面白そうだな、とは思います。でも、私にはまだ決断が出来ません」
「何で? 住むところもあるし弟も4人増えるよ?」
「そ、そういう問題なじゃくて……仕事とか……友人とか、両親……はあまり仲良くないんでまぁ別問題ですけど……単純に怖くないですか? 他のところに行くって」
「まぁなるようになれ、じゃない?」

が一人で田舎町から今住んでいるところに上京するのは心細くて、不安ばかりだった。
住み慣れた土地を離れ、誰も知らない人たちの世界に囲まれるのは不安で、怖い。
度胸や力がある人はどんな場所でも適応出来るのかもしれないが、一般人であるにはそれが出来る自信がない。

「イルミさんみたい私にも度胸があれば、もっと違う生き方もあったのかな、と今ならそう思います」
「度胸ならあるじゃん。金曜日に男を一人”殺す”だろ?」
「え……べ、別に殺すわけじゃ……別れ話をしてきっちり終わらせる……だけですよ」
「うやむやにすると逆にやられるよ。しっかりと息の根を止めてこないとダメだから」
「う……」
は押されると弱いんだから」

イルミはの手からマグカップを簡単に奪い、肩を押した。
奪ったカップをテーブルに置き、今の状態を理解していなさそうなの上に被さりキョトンとしている顔を見下ろした。

「え? イルミ……さん?」
「ね? こうやって簡単に”殺されちゃう”よ?」

頬に触れられたイルミの手が冷たくては思わず身体を縮こませた。
ドキドキしだす心臓にの口からは言葉が出てこない。
久しぶりに感じる顔の近さにの身体が瞬間的に熱を持ち出す。

「ほら、抵抗しないとダメだろ」
「イ、イ、イルミさん、悪い冗談は……やめてください」
「こうやって迫られたらどうするの?」
「ちょ、やめ」

前髪を優しく分けられて目が回りそうになった。
大きな手が首をなぞり、徐々に下へと下り腰を撫でられるとの身体が大きく反応し、両足はキュっと力強く閉じた。
危機なのは間違いないが、心のどこかで期待している部分があった。
身体を触れるイルミの腕を掴み、首を振りながら「やめましょう」と言うがイルミは少しだけ目を細めながら「オレを退かして見せてよ」と言う。
力で敵わない相手を退かすにはどうすれば良いのか。
首筋に寄せられた唇に思わず小さな声が出る。

「ほら、早く」
「イッルミさん……! 良い加減に、してください!」
「なら退かせば良いだろ」

小さなリップ音にの身体が固まる。
もぞもぞと足を動かすと割って入ってきたイルミの足に身体が震えた。
このままでは本当に何かが起こってしまうと感じたはイルミの肩に手を起きながら何度も止めてもらうようお願いするが聞く耳を持ってもらえなかった。
何か物理的な行動でしか止まらなさそうなイルミにはゴクリと生唾を飲み込みながらイルミの髪の毛に手を伸ばした。

「や、やめてください!」

は目を瞑りながら思い切りその髪の毛を引っ張っると、鎖骨を這っていた唇が離れた。
ゆっくりとが目を開けるとどこか満足気な表情を浮かべているイルミと目が合った。

「やれば出来るじゃん」
「……ど、どうも」

お礼を言うべきところなのではないが、思わず口から出た。
の上から退いたイルミは倒れたままのの手を引いて起こしてやると「ま、こうなるリスクを回避する為にもあの店にさせたんだけどね」と言った。
まだ落ち着かない心臓を落ち着かせる為には胸に手を当て、「お店でこんなことになるわけないじゃないですか」と反論するとイルミは首を傾げた。

「個室なら分からないだろ?」
「ま、まさか……そんなこと……」
「この前ニュースで教師が教え子に個室で手出して捕まったってニュースやってたよ」
「そ、そういうのは稀ですから! 多分……」

「でもそうなったらさっきみたいにやるんだよ?」と言うイルミはもしかしたら自分の事を心配してくれての行動だったのかと思うと胸が痛くなった。
身を以て”危機感”と言うのを教えてくれたのでは、と思うと嬉しく鳴って期待してしまう。
しかし、問題が何一つ解決してない今、イルミに”そういう感情”を持ってはいけないとは感じていた。
自分の気持ちに素直になるには、まず目先の問題を一つずつ解決していかなくてはイルミに失礼だと思い、那は空になった二つのコップを持ってキッチンへと向かった。


2020.07.13 UP
2021.07.25 加筆修正