パラダイムシフト・ラブ

47

それからと言うもの平日の指輪はカウントが1しか進まなかった。
早々に時間は過ぎ、話し合いの日である金曜日はあっという間にやってきた。
木曜日の夜は緊張してあまり眠れず、少し眠たい目を擦りながらの出社になってしまった。
家を出る時、イルミはに「頑張るんだよ」と一言くれた。
その言葉を胸には仕事も頑張らなければと意気込み、続々と届く案件メールを捌いていった。

お昼休みもに心配されながら過ごした。
何度も「本当に大丈夫なの?」と聞かれ、その度に「大丈夫だって」と返した。
突然のお邪魔では悪いと思ったは2日前の水曜日にお店に電話をしてマスターに会社の人と話をしたいことを伝えるとマスターは快く承諾してくれた。
何かを察しているのかなるべく人目につかない席を用意するとまで言ってくれた。
見えていなかっただけで周りの人達が協力的で恵まれているなぁとは電話を切った後に安堵の溜息が漏れた。

午後の業務が始まる前にのスマートフォンが震えた。
画面を開くと宮前からのメッセージで商談が入ったとのことで、少し遅れてから行くという連絡だった。
心のどこかで”まさか逃げるのでは”と思ったが、そうなったらそうなったで連絡を断てば良いと思った。
はすぐに大丈夫である旨を送り午後の業務に取り掛かった。

刻々と時間は進み、気がつけば定時になっていた。
も送らなければならないメールだけを送信し、帰り支度を始めたところで残業に突入してるから「勇気をあげよう」と差し出されたのは飴玉だった。

「しゅわしゅわして元気でるよー」
「ありがとう」

貰った水色の飴玉をすぐに口に入れると確かにしゅわしゅわと溶けだした飴から少しだけ元気を貰えた気がした。
鞄を肩にかけ「頑張ってくる!」と言うと、は無言で拳を掲げた。
は”絶対に大丈夫、ちゃんと言うんだ”と自分に言い聞かせ、会社を出た。

*****

その日の夕方、「また夜来るから」と言ってイルミは店を出て行った。
それから2時間後の夜18時、夜のオープン準備を始めていたマスターの店の電話が鳴った。
その電話を取ると相手はからで、仕事が終わり店に向かう事と、相手が商談で遅れる旨の連絡だった。
律儀なその性格にマスターは笑いながら待っていることを告げて会話を終わらせた。
その電話の30分後には店にやって来た。

「すみません。先に来ちゃいました」
「構わないよ。奥使っていいからね」
「ありがとうございます。多分もうすぐ来ると思うんで」

何の疑いも持たずには軽く頭を下げた後、マスターに席を教えてもらい、奥の席へと着席した。
グラスを運び、仕事はどうかとマスターが尋ねるとは顔を上げて「結構大変」と笑った。
マスターが持ち場であるカウンターに戻るとゆっくりと入り口のドアが開かれた。
見たことない客にマスターは一見さんかと思い、カウンターから出るとに気がつかれないように声を細めた。

「あ、申し訳ございませんが今日は」

マスターが貸切であることを告げようとした時、男は人差し指を唇に当てて「オレだから」と告げた。
体格はイルミそのものだが顔が全くイルミではない男にマスターは言葉を詰まらせた。
大きな黒目はキュっと細くなり、小さな唇とポテポテの二重アゴと短くなった髪の毛は何処からどう見てもイルミではないが、言葉遣いが本人そのものでマスターは固まっていた。
固まるマスターを他所にイルミはスタスタと店内に入るとカウンターに腰掛けてからちらりと奥の席を見た。
席にはしか座っておらず、いつもより小さく見えるその背中を見ながらイルミはカウンターに戻ってきたマスターに「相手は?」と問う。

「それが商談で遅れるみたいだよ」
「ふーん。逃げたのかな?」
「どうだろうかねぇ」

イルミは頬杖をつきながらマスターが出してくれたお酒を口にすると「どんな奴か知ってる?」と聞いた。
やけに相手を気にするイルミにマスターは意地悪く「気になるかい?」と揶揄うと、イルミは答えずもう一度グラスに口をつけた。

「……これ甘過ぎ」
「知ってると思うけど酒豪の口に合う度数はうちには無いからね」

ポツポツと話をしていると階段を下る音が聞こえた。
ゆっくりと引かれたドアにマスターは顔を向けたが、イルミはグラスを見つめたままだった。

「すみません。待ち合わせなんですが」
「あぁかな? どうぞ奥の席へ」

男が席へ向かうと同時にマスターは入り口へと向かいイルミとの約束通り外に出しているボードの”OPEN”の文字を”貸切”に変えるために階段を上っていった。
男が背後を通り過ぎ、に声をかけるのが聞こえた。
横目で奥の席を見ながらもう一度イルミはグラスに口をつけた。

*****

「ごめん。遅くなって」
「私もさっき来たばかり……だから」

久しぶりに面と向かって、公共の場で彼氏である宮前と会うのは緊張した。
は鞄の中にスマートフォンをしまい、溜息を零した。
その様子を見逃さなかった宮前は小さく笑って「話って何?」と切り出した。

「えっと、その……」
「この前の事?」
「そ、それもあるけど……えっと」

此処に来るまでの間、伝えたい事を頭の中でまとめてきたにも関わらずなかなか言葉が出てこない。
怖いという感情に負けそうになりながらも宮前を見ながらゆっくりと「私たちって、もう、ダメだと……思う」とは言った。
それを聞いた宮前は目を少しだけ細めながら「何で?」と聞いた。

「あ、あんまり……会えないし」
「会えれば良いの?」
「そ、そういうわけじゃ……なんて言うか、宮前さん……忙しそうだし」
「そりゃあんだけの部下を持ったら暇じゃないよ」
「そうなんだけど……えっと、気持ちが遠い気が、するの」

宮前は黙っての言葉を聞いた。

「この前だって、身体の事言うし……それだけなのかな、って」

俯いて喋るの声は震えていた。
それを悟った宮前はテーブルの上で指遊びをしているの手を握りしめた。
ビクっとの身体が跳ね、思わず顔を上げた。

「この前はすまなかった」
「え……?」
「俺も残業漬けの日々でストレスが溜まってたんだと思う」

宮前は申し訳なさそうな表情でもう一度「本当にごめん」と謝った。
の頭の中で”違う”と声が聞こえた気がした。
こんな展開を望んでいたわけじゃない。

「俺もに会えない日々にイライラしてたし、でも、が他の人と電話しているのを何度か見て……嫉妬したんだ」
「電話……?」
「今だって気にしてるだろ? それは相手からの電話待ち?」

確信を突かれては言葉を失った。
いつも仕事が終わった後は自宅に電話をしてイルミに帰る連絡をしていたが、今日ばかりはその電話は繋がらなかった。
もしかしたら折り返しの電話があるかもしれないと思い、無意識のうちにスマートフォンを気にしていたようだった。

には寂しい思いをさせて申し訳ないと思ってる」
「そ、そんなこと……」
「社内でもすれ違いだし、俺の愛が伝わってないんだろうね」

ねっとりとした視線がに絡みつく。
前まではその視線に身体が熱くなったが今では嫌悪感しか感じられない。
握られた手を振り解きたくても、それを解く事が出来ずに困ってっているとマスターが声をかけてくれた。

、お話中のところすまないね。お連れ様のドリンクを聞くのがまだだったもんだね」
「あ、えっと、すみません!」

マスターの顔を見て安心したのかは手を解き、素早くテーブルに備えられているメニューを宮前に渡した。
雰囲気を壊されたことで一瞬宮前は表情を歪ませたあと、直ぐにドリンクをオーダーした。
一礼したマスターはカウンターへ戻るとイルミに「タイミングばっちりだったよ」と告げた。


2020.07.16 UP
2021.07.25 加筆修正