パラダイムシフト・ラブ

52

が結局目を覚ましたのは日曜日の昼下がりだった。
結局まだスーツのままでどこもかしこも皺が出来ており早々にクリーニングに出さざるを得ない状況だったが、気がつけばまたベッドで寝ていた。
はまだ気だるい身体を起こしてソファに座るイルミを見た。
昨日の記憶が背中に走る痛みと倦怠感以外記憶がなく、何が起こったのかイルミに尋ねた。

「多分オーラを体内に集約するのに気力を使い切ったんだと思う」
「……そう、なんですか? なんだかまだ少しだけ体がだるいんですけど」
「まぁ無理やりこじ開けたようなもんだから。でも、あとは訓練次第でなんとかなると思うけど……あ、カウントは1だった」

イルミは指輪をに見せると確かにそこには38と刻まれており昨日と比べるとカウントは1しか減らなかった。
向こうに行くための知識が増えればカウントが増すだろうという仮説が本当に正しいのであれば1以上のカウントが見込めたはずだが結果は失敗に終わり、この時点でイルミが建てた仮説が崩れる。
イルミは考え込む様に腕を組んで「さっぱり分からないな」と珍しく弱音を零す。
は少しだけ俯きながら自分の中で心当たりのある仮説をイルミに話すべきか、話さないべきかで葛藤していた。
でもそれは同時に自分の想いを伝えてしまう事を意味する。
それでもイルミは諦めていないようで「まぁまだ時間あるから少しずつ習得していけば良いんじゃないかな?」とやけに楽観的だった。
はゆっくりと頷き、まずは着替えるためにベットから降りた。

*****

その日の夕飯はあまり凝った物を作る気が起きず、簡単な焼きそばで済ませた。
茶色の麺を不思議そうに見つめるイルミが「本当に食べれるの?」と聞いてきた時には思わず笑ってしまった。
結局いつも通りイルミは一口食べると”悪くない”と言って残さず食べきる。
素直じゃない想い人に苦笑しながらは食器を片付けるためにゆっくりと立ち上がると下腹部にズキリと思い痛みが走った。
ふとカレンダーを見て日数を数えると近々月の物がやってくる日だった。
憂鬱な気持ちになりながらも笑顔を崩さず「今度は美味しいって言ってくださいね」と言い残してキッチンへと向かった。

棚から小瓶を取り出し、その中に仕舞っていた錠剤を1粒飲む。
明日からまた仕事だと言うのに面倒臭い物が毎月1回はやってくる。
今までは一人で暮らしていたため誰にも遠慮する事はなかったが今はイルミが居る。
何となく女性の日の事を知られたなかったは黙っておくことにした。

入れ替わりにイルミが立ち上がりさっさと脱衣所へと向かう。
何時からそうなったのか分からないが、食後の後が洗い物を終えるとイルミはシャワーを浴びに行く。
言われなくても分かる相手の行動には当たり前になりつつある今の生活に若干の不安を感じていた。
もし、はこの世界に取り残されてしまったらと思うと寂しさが込み上げ、まだ日数はあるものの今から寂しがっている自分に今更本気でイルミの事を好きになっていることに気がついた。
本当に自分は宮前との関係を終わらせる事が出来たのだろうか。
その事だけが気になっているは近いうちにマスターのところに行って恥ずかしいが事の顛末を聞いてみようと思った。

「ほんと、どうやって帰ったんだろう……」

それでも自分の記憶を探ってみることにした。
手を握られたところでマスターがちょうどタイミングよく間に入ってくれたのは覚えている。
その後お酒の勢いもあってか色々言った気がした。
宮前のある一言でストッパーとなっていた何かが弾け飛んで、何かを言った。
果たして何を言ったのか。

「何だっけ……えぇっと……」

記憶の奥底で燻っている扉をノックしてみるが開かず、ドアノブを回してみても鍵が掛かっているのかびくともしない。
どこかに扉を開けるキーが落ちているはずだ。
は目を瞑って昨日の事をもう一度よく思い出してみた。

「ストレスが溜まってって話をして……えっと……それで愛が……何だっけ」

少しずつ記憶の小箱を開けていくと前に進めている気がした。
断片的な話のかけらに手を伸ばし、一つずつピースを繋げていく。

「別れたいって言って……飲み会の話をして……それから確か、宮前さんが騙されてるとか言い出し……てえぇ、あ、あぁあ……あぁあ!」

徐々にヒートアップしていった自分の姿が鮮明になってきた。
宮前が言った”騙されてる”の言葉によっての中で何かが弾けた。
勢いに任せて思っていた事をベラベラと話し、本人には言えない”好き”という想いを宮前の前で宣言してしまった事を思い出し、頭を抱えた。
ガチャリと脱衣所の方から音が聞こえたは勢いよく振り返り、言葉にならない言葉が口から漏れる。
今イルミと顔を合わせたら絶対に変に思われると思ったはクローゼットを慌てて開けて鞄の中から財布を取り出した。
イルミが出てくるより前に慌てて玄関に向かい、大きな声で「ちょっとコンビニ行ってきます!」とだけ伝えて家を飛び出した。

*****

コンビニに何か用があったわけではないが出てきた以上は何かを買わないと怪しまれると思ったは小さなプリンを2つ買った。
袋をぶら下げながら歩く帰り道。
夜風がの頬を撫でる。
それが気持ちよくて思わず目を瞑った。
冷静さを取り戻したの頭と身体からは徐々に熱が引き、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
あの日の次の日、指輪のカウントが20進んだというのの気持ちが固まったが故のカウント数だったと言う事で間違いないだろうと感じた。
ならもし、本人に想いを告げた次の日はいくつカウントが進むと言うのだろうか。
下手したら今の数字以上にカウントが進んでしまうのではないだろうか。
そうなればあっという間に残された数字は無くなっていく。
それまでに気持ちの整理をしたかった。

上昇していたエレベーターがゆっくりと速度を落とし、の住むフロアで止まる。
突き当たりまで歩き、ドアをゆっくりと開けた。

「ただい」
「何処行ってたの」

ドアを開けると真っ先に言われた言葉には心臓が止まるかと思い、イルミの問いに対して「コ、コンビニです」と答えるのが精一杯だった。
キッチンに寄りかかるイルミはポットの沸騰待ちの様子で、腕を組みながら帰ってきたばかりのをじっと見つめていた。
は袋からプリンを取り出して「甘いものが……食べたくなって」と咄嗟に嘘をつき、その視線から逃げるようには自室へと向かうとプリン2つとスプーン2本を机の上に置いた。
コーヒーを準備している音を聞きながらは自分の振る舞いに不自然なところが無かったか思い返した。
何か言われても出ていく前にコンビニ行くことは告げたし、しっかり買い物もしてきた。
何一つおかしいところなんて無い。
深呼吸を繰り返しているとイルミが自室へと戻り、のカップを静かにテーブルに置いた。

「ありがとうございます」
「夜に買い物行くなんて珍しいね」
「急に食べたくなる時って、ありません?」
「てっきり何か思い出して居ても立っても居られないくて頭を冷やしに行ったのかと思った」

時々イルミの鋭い勘が恐ろしくなる。
思わず心臓が口から飛び出してしまうかと思うほど、驚いたは悟られないよう、冷静を装いながら「思い出すって、何をですか?」と惚けて見せた。

「ねぇ。オレに言うことないの?」
「……え? イルミさんに、ですか」
「うん。オレに。ないの?」

ありすぎてどれのことを言っているのかには分からず、一瞬だけ嫌な汗が背中を流れた。
いや、もしかしたら何かの引っ掛けかもしれないと思ったは「何でしょう?」と首を傾げた。

「……本当に帰ってきた時のこと、覚えてないわけ?」
「帰ってきた……ときですか? 私、自分でもどうやって帰ってきたのかも、お、覚えてません……けど」

がそう言うとイルミは視線を逸らした。

「え? わ、私……な、なんか言ってました?」
「別に。やっぱり何でもない」

後味の残る雰囲気にはそれ以上追求が出来なかった。
どうしたものかと思いながらプリンの蓋を開け、お店からもらったスプーンでひと掬いした。
ふるふると震えるプリンを口に入れたが甘さはあまり感じられなかった。


2020.07.21 UP
2021.07.26 加筆修正