パラダイムシフト・ラブ

53

月曜日の朝、珍しくスマートフォンのアラームで起きたの目覚めはあまり良くなかった。
昨日の話しかけにくい雰囲気を纏っていたイルミの事が気になり、深い眠りは得られなかった。
ソファに座ってコーヒーを飲む姿を見れるのもあと何日残されているのだろうかと思うとの心は締め付けられる思いだった。

「おはようございます。今日の指輪は……ど、どうですか? カウントは進みましたか?」
「いや、1減って37。ほんと何なんだろう」
「やっぱり念に関してははあまり……関係無いってことなんですかね?」
「うーん。そういう事なのかな?」
「あ、前、通りますね」
「うん」

ベッドから降りて朝の準備を支度する間、イルミはを見ることはなく、小指にはまった指輪をずっと見ていた。
自分の山が外れた事に関して考えているようにも見えたが、雰囲気がいつものではないことにはすぐに気が付いた。
きっと帰宅時にイルミの機嫌を損ねる様な事をしてしまったのは確かなのだが、には全くと言って良いほど心当たりがない。
脱衣所で歯を磨き、冷水で顔を洗うと頭がシャキっとしたが、こんな雰囲気のまま最後の日を迎えるのはあまりにも味気ない。
はクローゼットから持ってきたシャツに腕を通し、大きく息を吸い込んでから脱衣所から出た。

「イルミさん」
「何」
「……私、帰ってきた時のことなんですけど、本当に覚えてないんです」
「みたいだね」
「私は帰ってきて……何をしたんですか?」

メイクポーチをの中からアイシャドウやアイライナーを出していると、この日初めてイルミと目が合った。
その瞳はまるで何か嫌悪感を宿しているような冷たい瞳だった。

「忘れてるなら忘れてた方が良いんじゃない?」
「でも、気になります。私が原因でイルミさんが不機嫌なら……何とかしたいです」
「……約束しておいて忘れる方が悪いとオレは思うけどね」
「約束…‥? 私が? イルミさんと?」

イルミはこれ以上話すことは無いとでも言うように視線をから逸した。
約束と言われてもは覚えていない。
何か約束をし、それを忘れたことにイルミは不機嫌になっているように見えたはよっぽど凄い約束をしてしまったのだろうと思い必死に思い出そうとしたが全然出てこなかった。
メイク道具を持つもなかなか手が動かず、二人の間に沈黙が訪れる。

「……よ、良くない、ことですか? 何か……迷惑をかけましたか?」

沈黙の圧に耐えられなくなったは一言言うとイルミは「さぁね」と冷たく言い放つ。
その声はどこか最初に出会った時のトーンと似ていた。
怒らせてしまう程の事をしてしまったことには戸惑いを隠せなかった。
しかし時間というのは残酷なもので刻々と時を刻んでいく。

「遅れるけど良いの?」

低いトーンにの肩が跳ねる。
仕事に遅れるわけにはいかないため、はメイクを早々に終わらせて鞄を引き寄せた。
いつもは玄関まで見送りしてくれるイルミの姿が今日はない。
重たいため息が漏れながら「いってきます」と言うが勿論返事も無かった。

駅までの向かう道、重たい気持ちを抱えながら今日の夜にでもマスターの店に寄ろうと考えた。
一体最後はどうなってしまったのか。
おそらくマスターなら店での事の顛末を知っているはずだと考えたは定時に上がる事を目標に改札を目指した。

*****

「はぁ」

最後のランチ客を見送った後、イルミは軽くため息をついた。
伏し目がちにカウンターに寄りかかるイルミにオレンジジュースを出したマスターは反対に笑顔だった。

「あの後大丈夫だったかい?」
「肝心な事を忘れてるから危うく殺すところだった」
「おいおいそんな物騒な言い方するもんじゃないよ」
「事実だから」

イルミはマスターに振り返りグラスを手に取った。
どうやらマスターが考えていた甘いルートには進まなかったようで、マスターは空のワイングラスを取り出した。
それをイルミに見せると「何?」とイルミは首を傾げた。

「女の子ってのは繊細な生き物でね、このワイングラスみたいにつっつくとすぐ壊れちゃうもんさ」
「ふーん。それが?」
「イルミ君はが大事な事を忘れちゃったから苛立ってるんだろう? でもはイルミ君が何で苛立ってるか分からないんだから、きつく当たったら壊れちゃうかもしれないよ? ちゃんと話し合った方が良いと思うよ」
「だからってオレから言うのも嫌なんだけど」

頬杖をつきながら不貞腐れるとカシャっと軽いシャッター音が聞こえた。
マスターとイルミが音がした方に顔を向けると一緒にバイトに入っていた女性のアルバイトがスマートフォンをイルミの方に向けていた。
マスターが苦笑いをしながら「撮影料取るよ」と言うとその子は笑いながら「アンニュイな表情頂いちゃいました」とスマートフォンの画面をイルミに見せた。
ちょこちょこと寄ってくる背の低い女性に「こんなの撮ってどうするの?」と聞くとニコっと笑いながら「SNSで自慢するためですよ!」と言った。

「イルミさんすっごい人気なんですよ。SNS上ではモテモテですから!」
「どうでも良いんだけど」
「ほら! これとか! お店のお客さんが撮ったやつなんですけど……はぁ、めっちゃ格好良い!」
「こら。だからってお前は勝手にアップするんじゃないぞ」

マスターが咎めるが女性はイルミに詰め寄り許しを乞う。
相手をするのが面倒臭くなったのかイルミは「好きにすれば」と言うと、両手を上げて喜ぶ女性は忙しなくスマートフォーンの画面をタップし始めた。
さっさと帰るように諭し、イルミにも着替えてくるよう言うにマスターにイルミは頷いて更衣室へと向かった。
よく接客中に話しかけられるが、客はイルミの本職を知らない。
見た目だけでチヤホヤされた事はあるが、真実を伝えると血の気が引いた顔で早々に周りは去っていく。
気がつけば名前を言うだけで避けられる表の世界には自分の居場所なんてものはとっくに無くなっていた。
しかし、一般人であるはイルミが暗殺家業を担う一家の長男であることを知っていても尚普通に接してくれる。
それでも言ったあの言葉は本心なのか。
自分から話を振るのは嫌だったが、マスターに言われた事を思い出し、今日の夜もう一度聞いてみようと思いながらベストを抜いだ。


2020.07.23 UP
2021.07.26 加筆修正