パラダイムシフト・ラブ

55

会社の時計が定時の時刻を指した瞬間、は勢いよく立ち上がるとは肩を跳ねさせながら「ビックリしたぁ」とを見上げる。
いつもは「コーヒー飲む?」と声をかけてくれる同僚が既に変える気満々の珍しい姿なは「え? 今日早くない?」と言うのがやっとだった。
は満面の笑みを見せながら「今日はちょっと用事があったね」と返し、早足でオフィスから出た。
の珍しい姿にはチョコ菓子を齧りながらその背中を見送った
会社から出た後、日課になった家への連絡には若干の躊躇いを感じた。
今の勢いで家に電話をしてしまったら電話口で色々聞いてしまいそうだったは気持ちを堪えて手に持ったスマートフォンを鞄に戻した。
早歩きで駅へと向かい、タイミングよく来た電車に飛び乗り窓の外を見つめていた。
通りしぎていく見慣れた景色を見ていると色々思うことがあった。
イルミはどうしてこんな重要な事を話してくれないのだろう。
バイトだって話してくれれば考えはするだろうが承諾はしたし、ましてや知っている店なら尚更だ。
昼過ぎに感じた感情は怒りだったが今は疑問と悲しみの方が強い。
もしかしたら信用されていないのかもしれない。
徐々に気持ちが落ち着き始め、この話をどうやって切り出せば良いのか不安になった。
ぼんやりと考えているとあっという間に自宅に最寄駅へと着いてしまった。

いつものマンションのドアが凄く重たく感じた。
は意を決してドアを開け、「ただいま」と言うと朝とは違ってイルミがひょこっと顔を出した。
あの朝の雰囲気はなんだったのかと思う程の変わりようには拍子抜けした。
自室へ入るとイルミはコーヒーを飲んでおり、いつもと変わりない日常には眉を寄せた。
違う事と言えば、イルミが隠し事をしているということだけ。

はクローゼットの中に鞄を仕舞い、スーツのジャケットをハンガーにかけるとイルミに振り返った。
テレビを見つめているその顔は今まで見てきた表情で、その顔を見ていると昼間の熱が徐々にこみ上げてくるのを感じた。
はクッションの上に腰掛けて「イルミさん」と改めて言う。

「何」
「……イルミさんも、私に私に何か言うこと、ありませんか?」
に? 無いよ」

その言葉にの中で何かが弾けた。

「嘘……ですよね」
「嘘じゃない」
「嘘ですよ。だって……お昼……バイトしてるじゃないですか」
「……仕事のこと?」

が力強く頷くとイルミは少し考えた後「それが?」と言った。
何の悪びれる様子もないイルミには我慢できず、思わず「何で教えてくれないんですか!」と詰め寄った。
それでもイルミは唐突なの剣幕に怯むことなく首を傾げながら「が居ない時間でオレが何しようがオレの勝手だろ?」と言う。

「で、でも! 教えてくれたって良いじゃないですか! 相談とか……して欲しいです!」
「何で?」
「な、な、何でって……何でもですよ!」

上手い返しが出てこず、は仕舞ったばかりのクローゼットの中から鞄を出し、スマートフォンを取り出した。
SNSの画面を見せて「イルミさん写真撮られてるんですよ!」と言うとイルミからは「知ってるよ」と返ってきた。
なかなか崩せない城には奥歯を噛み締めながら「何時からですか」と問う。

「多分2週間前ぐらいかな?」
「……どうして黙ってたんですか」
「だからオレの勝手だろ」
「し、心配になるじゃないですか! イルミさんは……だって、この世界の、人じゃないし……何かの拍子でバレたらど、どうするつもりだったんですか!?」
「バレるようなヘマはしないから」
「でも! それでも危険です! それに……なんですかコレ! この写真! ”恋の悩み相談中?”って何ですかコレ! どういう事ですか!」

はスマートフォンの画面をイルミに見せた。
まさにそれは仕事上がりの前に撮れらた一枚で、イルミとマスターが写っているものだった。
イルミは画面を見た後「あぁこれね」とへ視線を移した。

「一緒に働いてる奴が勝手に撮ったんだよ」
「恋の悩み相談って本当ですか!?」
「さぁ?」

今にも泣き出してしまいそうなにイルミは鼻で笑い、の手を掴むと一気に引き寄せた。

「ぅわッ!」

引っ張られることを想定していなかったの体は簡単にイルミに引き寄せられ、背もたれに手を着いてバランスを取った。
近くなったイルミの顔が少しだけ笑っていた。

「本当って言ったらどうする?」
「ど、ど、どうするって……だ、だって私そんなの……聞いて」
「あ、もしかして嫉妬したのか」
「なっ、ちがっ! こんな時に、ふざけないでください!」
「嫉妬じゃないなら何」
「イルミさん! わ、私怒ってるんですよ!」
「うん。だから嫉妬ででしょ?」

しなやかな手がの腰に触れ「ちょっと!」と手を叩くが、退かない。
添えられた手に力が入りは簡単にイルミの上に乗せられてしまう。
掴まれた手からスマートフォンを奪われ、それはイルミによってテーブルの上に置かれた。

「いい加減にしてください!」
「なら何で怒ってるのか教えてよ」
「だ、だから! 相談もなしに勝手にバイトしちゃうところですよ!」
「それの何が悪いの?」
「な、何って……イルミさんがその……この世界の人じゃないってバレだたら……大変じゃないですか!」
「バレたらどうなるの?」
「どうなるって……そ、それは……えっと……」

が言葉を詰まらせるとイルミが優しくその頬に触れた。

「潜入なんて裏の世界じゃな当たり前ってこの前ドラマ見てる時に教えたはずだけど」
「……バイトと潜入は違いますよ!」
「身を隠して内部に入るんだから同じことだよ。で、その写真の何が問題なの?」
「そ、それは……」

がちらりと振り返り、スマートフォンに表示されているマスターとイルミの写真を見る。
追い詰められた思いでは「たまたまこれが目に入ったから」と言うがイルミはそれを許さなかった。

「ふーん。どうせのことだから自分の知らないところで客とデキてるとでも思ったんでしょ」
「……ち、ちが」
「なら何? わざわざそれを選ぶってことは何かの中で引っかかるからだろ」

イルミの質問に答えられないでいるとイルミは小さく囁いた。

「あの時の言葉は嘘ってこと?」
「あ、あの時って……何の話ですか」
「ふーん。オレのこと”好き”って言ったのにアレは嘘だったんだ」
「は!? す、好き!? き、きき、聞き間違えじゃないですか!?」
「はっきり言ったから」
「そ、そんなこと、私……」
「起きてる時に言ってくれるって約束したんだけど」

そうイルミに言われての中で夢の出来事がフラッシュバックした。
でもあれは確かに夢だった。
夢の中のイルミは目だけは相変わらず笑ってはいなかったが、雰囲気がいつもより柔らかいものだった。
みるみる赤くなり始めるの顔を見ながら「あ、思い出した?」と言うイルミの顔が見れずは思わず俯いた。

「え、だってあ、あ、あれは……夢で……」
「へぇ。夢の中のオレには言えるんだ」
「いやちが、だって、え? イルミさん……う、嘘ですよそんなの……」
「なら好きっていうのは嘘なの?」
「いや、それも……うぅ……あぁえっとそれは、その……」

耳まで真っ赤なを見ながらイルミは「ふーん」と言う。
もう逃げられないと感じたは身をよじってイルミの上から退こうとしたが強い力抑えられその場から降りれなかった。
不意に耳に寄せられた「言わなきゃ離さないから」の一言には脳天を撃ち抜かれたような気がした。


2020.07.24 UP
2021.07.26 加筆修正