パラダイムシフト・ラブ

60

予定通り午後から出勤はしたがの顔色が悪かったようで上司命令ということで定時に退勤することになった。
あともう2、3ページで作っていた提案書が完成するので残業したいところだったが上司命令となれば致し方ない。
は会社から出るとスマートフォンを操作して耳に押し当てた。
数コールの後無機質の声が聞こえ、帰る旨を伝えると「分かった」と返事が返ってきた。
その後はすぐに音声は途切れる。
この連絡もあと何日出来るのだろうか。

駅の改札を通った後新入社員時代から使っていたボロボロの定期ケースを見た。
年季が入っているからか定期券の文字は何重にも重なり、擦れてパッと見ではどこからどこまでの区間か分からない程になっている。
もう定期を更新しなくても良いのだろうか。
改札を通る人がどんどんを追い越していき、その感覚がまるで自分はスタートラインから動いていないような錯覚を引き起こす。
イルミと出会えた事でまた違った自分をスタート出来るかもしれない。
そう感じたは大きな一歩を踏み出してホームへの階段に足をかけた。

電車を待ちながらは無意識に周りを見渡しながらこのホームも後何回見れるのだろうかと考えたところで一つの疑問が湧いてきた。
もしがこの世界から消えたら、今までの””という存在はどうなるのだろうか。
生きてきた痕跡は残ったままなのか、それとも人々の記憶から消えてしまうのか。
どちらにせよ恐怖だった。
誰にも何も言わぬままこのまま居なくなっても良いものなのだろうか。
これをイルミに相談したら恐らく無表情で別にどっちでも良いんじゃないと言われそうな気がした。
結局答えが出ないままは電車に乗り込み、電車の揺れに身を任せた。

考え事をしていたせいか位置取りに失敗してしまい、ドア付近をキープできなかった。
ドア寄りでは真ん中でサラリーマンに囲まれたは目を瞑りながら背中を預けたり預けられたりを繰り返した。
大きく揺れれば乗客がその反動に身を任せていると、トンとお尻に何かが当たった。
恐らく背後の乗客の鞄を持った人の手かもしれない。
その時はあまり気に留めず無関心を貫いていたが、不自然に手が触れているのを感じた。
満員電車なので致し方ない部分はあるがあまり良い気はしないし、もしかしたら考えすぎかもしれないとは小さく溜息を吐いた。
もし痴漢だとすればどうしてそんな馬鹿げたことをするのか。
犯罪をおかしてまで女の人の身体を触るより、しっかりとお金を払って合法で触れるところに行けば健全なのに。
もう少しその手がエスカレートしたらはその手を抓ってやろうと決めた。

*****

「別にどっちもで良いんじゃない?」

夕食後のテレビタイムのとき、ふと帰り際に疑問に思った事をイルミに話したら想像していた通りの返答が返ってきた。
はそれが可笑しくて笑うとイルミは「別に笑うような事言ってないけど」とコーヒーを一口飲み、その後すぐに「のしたいようにしたら良いと思うと」とイルミは言った。
一見突き放すような言葉だがイルミなりの優しさだと分かっているはニヤけてしまった。

「気持ち悪い顔してる」
「失礼ですよ」
「だって事実だから」
「……イルミさんは優しいなーって思っただけですよ」
「オレが? って人を見るセンス0だよね」
「そ、そんなことないですよ」
「変な男と付き合ってたし」
「そ、それは……もう良いです!」

それを言われてしまうと何も言い返せない。
過去の恋愛を考えれば確かに男を見る目はなかったかもしれないが、今はそんな事は無いはずだとは自分に言い聞かせた。

「い、今はセンスあると、思いますよ?」
「オレのことちょっと変わってる人って言ったくせに」
「それは……すみませんでした」

心地良い沈黙に浸りながら二人でその日のニュースを観る事にした。
代わり映えしないニュースの内容が続くなか、痴漢で捕まった男の報道が始まった。
タイムリーなニュースにはまた心の中で馬鹿だなと思う。

「なんで痴漢ってするんですかね? やっぱり……密接して隠れてこそこそする事に興奮するんですかね?」
「知らないよ。この前もこういうニュースやってたけどはされたことあるの?」
「ありますよ。多分みんな言わないだけで1回や2回はありますよ」
「ふーん」
「今日は位置取り失敗して密集してる場所で乗ってたんですけど、魔がさすんですかね? ちょっと触られたんで抓ってやりましたよ」
「触られたの?」

は「ちょっとだけですけどね」と言いながら空のカップを二つ持ってキッチンへと向かった。
電気ポットに水を入れ、沸騰するまでの間にカップを軽く洗って棚からコーヒースティックを取り出した。
いつもならイルミは自室でおかわりが来るのも待っているのだが今日は珍しくキッチンまでついてきた。

「どこ触られたの」
「どこって……お尻です。でもたいした事無いですよ。さわさわってされるぐらいでイルミさんが想像しているような過激なことは一切ないですから」

は空になった2本のコーヒースティックを捨てると砂糖が入ったポットに手を伸ばした。
脳が甘いものを欲しておりいつもより気持ち多めに砂糖を入れると背後に立ったイルミが「こんな風に?」と聞いてきた。

「え?」

ふり返る前にその手がのお尻を優しく撫でる。
最初は起こったことに理解が追いつかなかったが撫でる手がショーツのラインを撫でたところではイルミの手を叩いた。

「な、何、してるんですか……?」

はイルミに向き直って触れられたお尻を隠した。
悪びれる様子がないイルミは首を傾げながら「何って痴漢の真似だけど」と答える。
絶対にそんなことをする人には思えず、何故そんな真似をしたのかが問う。

の身体をどうやって触ったのか気になってつい」
「ついって……身体って言いますけど実際はお尻だけですからね? こう、ちょっとだけ撫でる感じですよ」

空で手をヒラヒラさせて見るがイルミは微動だにしない。

「嘘かもしれないだろ? 恥ずかしくて言えないとかで本当は言わないだけであんなところやこんなところ」
「ないないない! ないです! もう馬鹿なこと言ってないで大人しく部屋で待っててください」

はイルミの背中を押して自室まで連れて行くといつものソファの定位置に座るよう言った。
珍しく言うことに従うイルミに少しだけ違和感を感じたが、は腰に手を当てながら「私は何もされてませんから」と伝えた。
大事になる前に手を抓ったら治ったことも教えるとイルミは考えるように顎に手を置いた。
よくあるAVのようなことは現実ではありえない。
もちろん世の中にはそれ目的の人がいるかもしれないのが、そんなのは本当に極々一部で一般にはそんなものは浸透していない。
イルミの大きな目がをじっと見つめる。
何か言いたげなその目には「何ですか?」と聞く。

「まぁ今回は信じてあげるけど、何かされたらちゃんと言いなよ?」
「まぁ……よっぽどなことが起こったらちゃんと駅員さん呼びますから」
「そうじゃなくて。知らない奴がに触れたんだよ? 殺しとかないとまた何されるか分からないだろ」
「大袈裟ですよ……」
「大袈裟じゃないから」
「いや大袈裟」
「じゃないから」

終わりが見えなさそうなやりとりには早々に白旗を揚げた。

「……わかりました。何かあったらちゃんと言います」
「うん」
「でも本当のところAVのようなことなんて絶対起こりませんから」
「……見たことあるの?」
「え」
「あるの?」

キッチンからカチっと軽い音が聞こえた。
がキッチンへ逃げるのをイルミが追いかける。

「ねぇあるの?」
「な、ないですよ! ないですけど大体想像つくじゃないですか!」
「オレは見たことないから想像つかないなぁ」
「あぁもう付いて来ないで! 大人しく部屋で待ってて下さい!」
「どんなのか教えてよ」
「どさくさに紛れて触ろうとしないの! ほら、あっち行って下さい! 危ないですよ?」

熱湯が入ったポットをイルミに向けるとしぶしぶといった感じでイルミは部屋に戻っていった。
好奇心なのか計算なのか分からないイルミの行動には大きなため息をつきながらポットのお湯をカップに注いだ。

*****

寝る前の一悶着にエネルギーを使ってしまったはいつもより早く眠気を感じた。
それを察してくれたのか全く眠くなさそうな顔で「何だか眠いね」と言うイルミがおかしかった。
いつもより早い就寝時間に少しだけ寂しさを感じながら部屋の電気を消してはベッドに乗った。
布団をかぶりながら寝返りを打ち、ソファに座っているイルミを見ていた。

「明日はどれくらい進みますかね」
「さぁ? 12ぐらいじゃない?」
「それじゃ私が寝ている間にイルミさん帰っちゃってるかもしれないじゃないですか」
「起きたらニホンじゃないって可能性もあるけどね」
「……確かにそうですね」

刻々と迫るタイムリミットにはまだモヤモヤしていた。
もしイルミのいう通り12進んでしまったら何もできないが、残り日数があればやはりお世話になった人達にお礼を言いたいと思った。
勿論それがが向こうの世界に行けなかった事を考慮してもだった。
言える時に自分の思っている事を伝えておかないといつ何時言えなくなる日が来るか分からないと、イルミと過ごしてて気がついた。
事実をそのままいうわけでなく、ただ一言”今までありがとう”と言いたかった。
は残りの日数を指輪が残してくれる事を信じてイルミに「おやすみなさい」と言った。


2020.07.27 UP
2021.07.27 加筆修正