パラダイムシフト・ラブ
62
その日の仕事終わりの電話ではマスターの店に寄ることをイルミに伝えて電話を切った。
最寄駅の階段を軽やかに降りてはすぐに店まで早歩きで移動した。
外に出された看板の”OPEN”を見ると早くマスターに会いたいと思い、降り階段を急いで降り、ゆっくりとドアを開けるとグラスを拭いていたマスターと目があった。
「じゃじゃーん。来ちゃった」
「来ちゃった、じゃないだろう。連絡無いから何も用意してないぞ?」
「別に良いですよー。気まぐれってやつです。色々聞きたくて」
はいつも座っていたカウンターの席に座ると「マスターも色々話したいでしょ?」と満面の笑みを見せた。
その笑みにマスターは一瞬言葉を詰まらせながらも「色々、ね」と返した。
マスターはすぐにグラスにレモンを入れた水をに出してバックヤードへ消えた。
冷たいグラスを持ちながらがマスターが戻るのを待っているとマスターはすぐに戻ってきた。
「これ、ランチの残りだけど食べるかい?」
バスケットに入ったクッキーがの前に静かに置かれた。
は「食べる!」と星型のクッキーに手を伸ばし一口だけ齧る。
甘すぎないクッキーは見た目とは裏腹にしっとりしていて口の中でホロホロと砕ける。
もぐもぐと口を動かしているとマスターは「今日は飲んでも平気なのかい?」と聞いた。
口の中のクッキーをごくんと飲み込んではコクンと頷いた。
「ほどほどにって釘を刺されました」
「面倒見の良い彼じゃないか」
「……それよりも私はマスターとイルミさんがグルだったってのが衝撃的です。あの日だってイルミさん居るの知らなかったし」
マスターは棚からコーヒーリキュールが入ったボトルを取り出して「グルとは人聞きが悪い」と笑った。
一人仲間はずれにされたような感覚には不貞腐れながらグラスに口をつける。
目の前で作られるカルーアミルクを見ながらは「全然知らなかったんだもん」と零した。
「店に関しては本人がニートだって言うから雇っただけだよ。日本の接客を学べる良い機会だと思ってね」
「教えてくれたって良いじゃ無いですか」
「教えたらお母さんみたいに見に来るだろ?」
「……そりゃまぁ……見に来ますけど」
「お待たせ」と出されたカルーアミルクはいつ見ても綺麗だった。
一口飲んでみるとあの日飲んだカルーアミルクとは違う甘い味がした。
アルコールの香りも弱くあの日出されたものは何だったのだろうと考えているとマスターは「味が違うかい?」と考えがお見通しのようだった。
「う、ん。この前のはもうちょっとこう……なんて言うかもっとほわーってしたけど」
「イルミ君の指示だったんだよ」
「は? イルミさん?」
「”強めを飲めして”って。最初からを連れて帰る気で居たよ、彼はね」
マスターも自分のカクテルを作り、のグラスと軽く合わせた。
お互いにグラスを掲げて一口煽る。
「でも辞めちゃうなんて勿体無いなぁ。近いうち国に帰るんだって?」
「えっ、えぇ……まぁ、その。急に帰国が決まったみたいで……私も驚いちゃって!」
アハハと乾いた笑いで返したが、自身仕事を辞めた事を聞いていなかった為その場を凌ぐのに精一杯だった。
ついこの間仕事をしていると聞いたばかりなのにもう、カウントが残りすくない事からもうマスターに辞める事を話していたことに内心驚いていた。
それにしても仕事が早い。
立つ鳥跡を濁さずといったところである意味感心してしまった。
「って言うかですね。ついこの前知ったばかりなんですよ」
「ウチで働いてる事?」
「そうそう。それですよ、それ!」
「だってやる事無いっていうから……でも真面目に働いてくれて助かったよ」
「へぇ!」
あのイルミが真面目にカフェのバイトをしているのが想像出来ない。
無愛想だし、敬語も使えないイルミが真面目に働いているとはどういうことなのか。
やはりもっと早くに知って実際に働いているところを見たかったとつくづく思った。
「おまけにあのルックスだろ? おかげで昼の売り上げが凄く好調だったんだけどねぇ」
「へぇ……」
「そんな怖い顔をするんじゃないよ。可愛い顔が台無しだ」
唇を尖らせるの額をマスターは軽く弾いた。
女性客に騒がれていたことはSNSで分かっていた事だったが、実際にそれを耳にするのは複雑な気分だった。
「二人を見れば誰だってイルミ君は一筋って感じがするけどねぇ」
「ひ、ひとっ!? な、何言うんですか! 止めてよそういうの……」
思いがけないマスターの言葉には思わず大きな声を出してしまった。
そんな初心な反応を見せるに対してマスターは笑いながら「よくの話をしてたからね」と茶化す。
だんだん恥ずかしくなってきたはこの雰囲気を誤魔化すためにグラスの中で揺れるカルーアミルクを一気に飲み干した。
「大切にされてると思うよ。じゃなきゃ此処を貸し切りにしてくれなんて言わないだろ?」
「え……な、何ですかそれ……貸し切り?」
「おや? 聞いてなかったかい? 参ったなぁ……もう話してると思ったんだけど」
初耳の情報をが逃がすわけなかった。
から視線を外したマスターに身を乗り出して詰め寄った。
「どういうことですかそれ! ねぇ! 初耳!」
「い、いやだから……バイト代はいらないからその代り此処を貸し切りにしてくれないかって……」
「何それ!? イルミさんが……?」
「二人が話せるようにって……」
「じゃ、じゃぁあの日……たまたまお客さんが入らなかったからとかじゃなくて……」
「借切り札出しておいたから誰も来なかったんだよ」
ドクンと胸が疼いた。
何でそこまでしてくれるのか。
嬉しさと恥ずかしさがこみ上げ「嘘! やだ、嘘でしょ!? 全然知らなかった!」とは慌てふためく。
は思わずカウンターに突っ伏して赤く染まり始める顔を隠した。
「聞いてない聞いてない! イルミさんそんなこと……一言も言ってなかったもん!」
「まぁそういうの自分から言う感じじゃないよね、イルミ君って」
「だ、だからってそんな……折角自分で、稼いだお金なのに……」
「でもカッコいいよね。サラっとそういう事が出来る人ってなかなか居ないぞ?」
「格好良いとかそういう問題じゃなくて、あぁもう嫌! どうしよう! 帰りたくない! マスターどうしよう無理無理! こんなんじゃ帰れないって! どんな顔して会えば良いの?!」
ワーワーと子供みたいに騒ぐの頭をマスターは優しく撫でた。
「でもちゃんと帰らないと。イルミ君が待ってるよ?」
「そうかもしれないけど……帰りたく、ない。無理」
「何でそんな事言うんだい?」
「だって……恥ずかしいじゃないですか。どんな顔して良いか分かんないし、こんなの知った後じゃまともに話せる自信ない……」
「……だそうだよイルミ君。どうする? は今日帰らない気で居るみたいだぞ」
マスターの言葉に心臓が止まりかけた。
すぐに体を起こして振り返ると壁に寄りかかってこちらを見ているイルミと目が合った。
腕を組みながら大きな目がを見ている。
思わず小さな悲鳴が漏れ、椅子から落ちそうになった。
「やぁ」
「な、な、何で……何で居る、の?」
「何でって元勤め先だし、が寄るっていうから迎えに来たんだけど」
「ちょっと待って、この感じ前にあったけど……何時から、そこに、い、いらっしゃいました?」
イルミは少し考えた後「貸し切りの話辺りだよね?」とマスターを見て首を傾げた。
マスターも「そのぐらいかな?」と苦笑いをしながら頷いた。
「っていうかド、ド、ドア! ドア開く音しなかった!」
「そりゃ音をたてないで開けるなんて誰でも出来るでしょ」
「出来ませんよ!」
「はオレの”向こうでの仕事”忘れたの?」
「……あ」
マスターの前だからか元との世界とは言わずに”向こうでの”と言ってくれた事で頭が働いた。
暗殺を生業としているイルミは何をするにしても静かだった。
どこの世界に物音をたててターゲットに近く殺し屋がいるだろうか。
妙に納得してしまったは今度はマスターに向き直った。
「マ、マスターもイルミさんが来たなら教えてよ!」
「イルミ君が”言うな”って」
マスターは「ごめんな」と言いながら口元に人差し指を当てる仕草をに見せた。
「で、どうするの?」
イルミはの隣の席に腰掛けると頬杖をつきながらを見た。
「今日は帰って来るの?」
乱れたの前髪に触れた後、ピンク色に染まる頬を軽く撫でた。
頭から湯気が出てしまいそうな感じがしては思わず俯いた。
「か、帰り……ます」
「帰りたくないんじゃなかったの」
「うっ……いや、ちゃんと、帰り、ます」
「あっそう。まぁ帰らないって言っても引きずって帰るからどっちでも良いんだけどね。あ、オレ何でも良いから」
テキパキと物事を進めるイルミに感心しながらマスターは「いやー熱い熱い」とニコニコしながら棚からウィスキーのボトルを手に取った。