パラダイムシフト・ラブ

63

店で数杯お酒を飲んだ後、がうとうとし始めたのでお開きとなった。
「また来ますねぇ」と力の入っていない笑顔でマスターに手を振るをイルミは引きずるようにして店を出た。
おぼつかない足取りのに「しっかり歩いて」と言うが本人は上機嫌で聞く耳を持たない。
鞄を振り回しながら歌を歌うは誰がどう見ても上機嫌な酔っ払いだった。

「どうして貸し切りの事、教えてくれなかったんですかぁ?」

はパンプスで小石を蹴ったがそれは空を切るだけだった。

「別に。教える程の事でも無いし」

が蹴り損ねた小石を代わりにイルミが蹴ると遠くまで飛んでった。

「教えてくれたって、良いじゃ無いですか」

大きな声でそう言いながらは小走りで飛んでいった小石まで行くと狙いを定めてそれを蹴った。
しかしそれはイルミのように遠くには飛ばず数歩先までしか飛ばなかった。

「別に良いじゃん。結果的に別れることが出来たんだから」

そう言ってイルミはの腕を掴むと「遊んでないで行くよ」と引っ張った。
は大人しく「はぁい」と返事をして引かれるがままに歩いた。
目の前にある背中はピシっと伸びてブレない。
どうしてこんな人が自分を気にかけてくれるのか。
そこだけがの中で引っかかっていた。
しかし、その理由を聞くのが少しだけ怖かった。
指輪の力で出会っただけという理由だったら、それはあまりにも悲しいことだからだ。
無言で歩く背中を見ながらは俯いて歩いた。

*****

結局二人はマンションに着くまで無言だった。
家に着くなりはソファに座らせられ、キッチンから戻ってきたイルミはにグラスを渡した。
がグラスに口を付けようとした時、イルミに「そこオレの場所」と遠回しに”退け”と言われた気がしてスペースを開けた。

「調子乗って飲むから小石もまともに蹴れないんだよ」
「……ど、どうも」
「うん」

氷の入ったグラスは冷たくて酔いが一気に冷める感じがした。
いつもの我が家に帰ってきて安心するはずが返って緊張してしまいは忙しなく足元を擦り合わせた。

「オレが居ないと正直に話すんだね」
「……あれは、えっと……」

イルミは慣れた手つきでテレビのリモコンを操作していた。

「イルミさんは……ずるいです……秘密主義っぽいです」
「秘密主義?」
「そうですよ。お店だって……バイトの件もそうですけど、貸切だって……イルミさんが頑張って稼いだお金なのに……そういうのずるい。私だけ知らないみたいでずるいです」
「オレがそうしたかったからそうしただけだから」
「……イルミさんは、指輪の最初のルールってまだ覚えてます?」

興味を惹かれたのかイルミの目がゆっくりとに向けられる。
「ルール?」と言うイルミには頷きながら「キス……のルールです」と言った。
が勇気を出して言った言葉にイルミは短く「覚えてるよ」とだけ返す。

「明日……カウントが1になったら、その、最後にし、しても、良いですか?」
「え? 今じゃなくて?」
「い、今したら明日確実に1じゃなくて0になるじゃないですか!」
「でも今の流れって”今”じゃないの? てっきり誘ってるのかと思った」
「さ、誘ってません! まだ行けるって決まったわけじゃないから……私が言いたいのは、その……お別れになったら嫌だからって意味です!」
「だからも連れてくって言ってるじゃん。馬鹿なの?」
「バ、バカはイルミさんでしょ!」

誤魔化すようには水を一気に呷った。
空になったグラスを片付けるためには立ち上がり、クローゼットから部屋着を取り出して自室から出て行った。
そんな慌ただしいの背中を見ながらイルミは小さく笑っていた。

*****

部屋着に着替え、少しばかり落ち着いたはテレビを見ているイルミに「何か食べます?」と聞いた。
空きっ腹に酒を入れたせいかはあまり食欲が無かった。
イルミは「別に1週間ぐらい食べなくて平気だから」と夕飯を断り部屋に沈黙が訪れる。
何だか申し訳なくなったはコンビニで何か買う事を提案し、イルミを外に連れ出す事にした。
二人で部屋着の上にジップアップパーカーを羽織り、夜の街へと出かけた。
昼間に二人で出かける事はあったが、夜の街は初めてでは少し緊張していたがイルミは平然と隣を歩く。

「イルミさんは、夜に仕事をする事が多いんですよね」
「そうだね。昼間の依頼もあるけど夜の方が人目につかないから」
「……わ、私も向こうに行ったら……イルミさんのお仕事、手伝うんですかね?」
「親父が何て言うかだけど、まぁ無いとも言い切れないかな」
「うっ……な、何か私に出来る事ってあるんでしょうか?」

将来の自分の行く末に不安を感じているとイルミが「あるかなぁ」と考え込んでしまった。
ゾルディック家というのがどれほど凄いのかいまいち分からないには本当に自分の居場所があるのか不安だった。
聞けば家族は暗殺一家で身の回りの事は全て使用人である執事がやってくれると言う。
そんな環境で何の取り柄も特技もないぽっと出の一般人であるが生きていけるのだろうか。

「別にはそのままで良いんじゃない?」
「で、でもタダ飯食いは良く無いですし……そうだ! 執事さんを手伝うってのはどうですか?」
「……あいつらの? 止めた方が良いよ。死ぬって」
「……え? そ、そんなに執事って大変なんですか?」
「他はどうか知らないけどウチは大変だと思うよ。に出来るとは思えない。あと制服が似合わない」
「制服があるんですか……とんでもないお家ですね」
「普通だよ」

夜の住宅街が静かで良かったとは思った。
こんな話を通行人や近所の住人に聞かれた日には何を言われ、どんな目で見られるか分かったもんじゃない。
コンビニに入ると軽快な音楽が店内に鳴り響く。
デザートコーナーへと進みはプリンを手に取りながら「どれでも良いですよ」と言うが、イルミはすぐにと同じ物に手を伸ばした。
何故同じ物にしたのか問えば「と同じのが良いから」と真顔で返され逆にの方が恥ずかしくなった。
早足でレジカウンターへと向かい、イルミの腕を引っ張って早々に店内から出た。

「どうしたの」
「あ、あまり心臓に悪い事、言わないでください」
「何が?」
「……あ、あぁ言う事は言っちゃダメです!」
「だから何が?」

の態度の変化に納得がいかないイルミは首を傾げた。
店から少し歩いたところではスピードを落として隣を歩くイルミを見上げた。
街灯だけの明かりでイルミの表情は見えなかったがいつもの無表情なんだろうなと思いは大きく深呼吸をした。

「あまり、ドキドキするような事……言わないでください」
「言ってないよ」
「い、言いましたよ。たぶん、無自覚なんでしょうけど……あんまりドキドキするとカウントが早まるじゃないですか」
「よく分かんないけどドキドキしたんだ」
「し、しまし、た」
「ふーん。女ってよく分からないもんだね」

住宅街を歩く中イルミは何かを思い出したように「あ、そうだ」と立ち止まった。
も振り返り首を傾げるとイルミは「公園行こ」と言い出した。
あまりにも濃厚な日々を過ごしていたため忘れかけていたが、公園と聞いて男達に襲われかけた出来事がフラッシュバックした。
は一瞬渋る仕草を見せたが一度決めた意思は曲げないイルミに根負けして結局行く事になった。
一体何しに行くというのだろうか。
だんだんと良い思い出の無い公園が近づくにつれ恐怖が蘇りは無意識にイルミの腕を掴んでいた。

「大丈夫だって。オレ居るし。ちゃんと約束守ってるか見に行くだけだから」
「約束?」

不安が膨れは涼しい顔をして歩くイルミを思わず見上げた。
一体誰と約束をしていると言うのだろうか。
また一つ知らない事が増え、の中でモヤモヤとして感情が芽生え始める。

「あ、あの……」
「向こうに行く前にに謝って貰わないとね」
「謝る? な、何を……」

公園に着くと忘れもしない男達3人が居た。
紛れもなくその男達はを襲った男達ではすぐにイルミの背中に隠れた。
臆する事なく男達に近づくイルミは堂々としていて、イルミの存在に気がついた男達は「き、来た!」と小さな悲鳴をあげた。
どういう事なのか全く理解出来ないでいるはイルミの服を引きながら「イルミさん帰りましょう!」と言うがイルミは動じない。

「やぁ。久しぶり」

そう言ってイルミは片手を上げて呑気に挨拶をした。


2020.07.30 UP
2021.07.27 加筆修正