パラダイムシフト・ラブ

65

家に帰ってきた後、は不安な気持ちでいっぱいだった。
頭の中から人間らしからぬ動きをする男の姿が離れなかったと違ってイルミは平然とプリンを食べながら「甘すぎ」と文句を零していた。
後2日しか無い中でこんな経験をするとは思ってなかったはこの後の事を考えていた。
もし、この経験が原因で明日のカウントが進まなかったとしたら、の気持ちが戻るまでイルミは元の世界に帰れないという事になる。
そうなったらどうなるのだろうか。
自分もあの男のように針を刺されて身体や思想をコントロールされてしまうのだろうか。
そう思うとイルミが怖かった。

「……何考えてるのか知らないけどに針は刺さないから」

まるでの心を読んだかのようなイルミの発言には弾かれたように顔を上げてイルミを見た。
スプーンを咥えながら「食べないなら食べて良い?」と聞くイルミには咄嗟にプリンを差し出していた。
「こんな甘いの食べてたら身体に毒だよ。ミルキみたいになるよ?」と言いながらもイルミはプリンの蓋を開けて食べだした。
あんな事の後でよく食べ物が喉に通るなと思いながらはイルミを見ていた。
一体何を考えていて、残り2日の事をどう思っているのだろうか。

「……も、もし……明日カウントが進まなかったら……どうしますか?」
「どうしますかってどうもしないけど」
「……針……刺さないんですか?」
「だから刺さないって言っただろ」
「な、何で……何でですか?」

もういっその事刺してくれれば良いのにと思った。
そうすればこんなにも悩まないのに。
カウントが0になって、向こうに戻ったらその針を抜いてくれれば良い。
そうすれば全てに対して諦めがつくというのに、イルミは針を刺さないという。

「刺せば……イルミさんは簡単に向こうに帰れるのに」
「そりゃ刺せば簡単だけど。何? は刺して欲しいの?」v 「……だ、だって後2日ですよ? 此処まで来て……カウントが止まっちゃって、イルミさんが、か、帰れなくなったら……」

全ての感情が入り混じって悔しいという気持ちを作り出した。
好きになった人を恐れる自分が悔しくて、それならいっそ一思いに刺してくれれば楽になるのに、イルミは刺してくれない。
好きという気持ちはあるものの、あの現場を目撃したら素直にそれが言えなかった。
あれがイルミの仕事のやり方と言うなら理解しないといけない。
しかし内容はあまりにもショッキングでの想像を少なからず超えていた。
あまりにも残酷で、残虐だった。

「オレは向こうに行く前にオレの仕事のやり方をに知って欲しかっただけ」
「……でも」
「言っただろ。オレはを気に入ってるって」

イルミの言う”気に入ってる”の意味がは分からなかった。
好きな人に怯える自分の何処を気に入るというのだろうか。

「あんな作り物の映画でビビってるぐらいだからやっぱり現実見せておかないとショックで死ぬかもしれないだろ?」

もぐもぐとプリンを食べ進めるイルミは「やっぱり甘すぎ」と空になった容器とスプーンをテーブルに置いた。

「第一オレはに危害を加える奴を許せないし許さない」
「……気に入ってる、からですか?」
「そうだよ。分かってるじゃん」

背もたれに寄りかかりながら足を組むイルミは何処かイライラしているように見えた。
まるで兄に叱られている妹のような図には俯いた。

「だ、だったら……尚更刺せば……」
「何度も言わせないでくれる? オレは刺さないって言った」
「……す、すみません……」

口答えをさせない圧倒的な威圧感には身体を縮こまらせた。
何だか怖くなってきたは涙を堪えながらイルミの次の言葉を待った。

「そりゃ刺せばオレの思い通りだし何の心配もないけど、それじゃ面白く無いだろ?」
「え?」
「とりあえずそこじゃなくて隣座って」

ゆっくりと顔を上げるとイルミは隣を指指しながら「早く」と言う。
意味はわからなかったが、は言われるがまま指定席となっているクッションから腰を上げて遠慮がちにイルミの隣に座った。
これから何が始まるのか分からずは視線をキョロキョロと動かしてると「あのね」とイルミが切り出した。

「操るのなんて簡単だけど、を操るのは面白く無い」
「ど、どうしてですか……? だって、その方が簡単に帰れるのに」
「最初はオレも刺した方が楽だし考えなかったわけじゃないけどなんだろう。反応が面白いから?」

イルミの手がの髪の毛に伸びて、顔の横に垂れた髪の毛を耳にかけられる。
反応が面白いと言われてもにはピンと来なかった。

「オレが今を襲ったとしても針が刺さっていればはオレを無条件に受け入れる。何したってオレの思いのまま。そんなの今までの女と同じだから」
「……でも、それは仕事ですよね? プライベートとか……」
「プライベートで女を抱いた事なんて無い。どの女も皆オレの家系や金目当てで近づく奴らだし、正直ヤってもつまんないんだよね」
「そ、そんな……中には一人ぐらい……」
「そんな奴居ないから。でもは馬鹿みたいに抵抗したり、ムキになったりするしさ。でも変なところで一生懸命だし。見てて面白いんだよね。だから気に入ってる」

唇を撫でられは顔を逸そうとしたが、イルミに顎を捕まえてしまいその抵抗は失敗に終わる。

「力じゃオレに勝てないって分かってるのに抵抗するよね? そういうところが面白い」
「……弱いものいじめって言葉……知ってます?」
「弱いのはいじめる前に死ぬから」

イルミはの顎から手を離すとゆっくり立ち上がった。

「仕事のやり方を見せたのだってオレのこと”ずるい”って言うから見せたんだからね」
「……え?」
「オレが隠し事するからずるいんでしょ? だから見せた」

軽くの頭を叩くとイルミは「じゃ、オレ外で寝るから」と言ってベランダの窓へと向かった。
何をするのかと思いはその背中を追いかけ、咄嗟にイルミのシャツを掴んで引っ張った。

「ど、何処行くんですか?」
「何処って公園。あの砂彫りやすいんだよね」
「な、なんで急に……?」
「1日あげるから準備しておいて」
「は?」

は数回瞬きを繰り返しながら慣れたように鍵を開けるイルミのシャツをもう一度引っ張った。

「待って待って! どういう事ですか?」
「どうせの事だから明日は休みにしてるだろ?」
「……な、なんでそれを」
「あ、やっぱりそうなんだ。じゃなきゃ店に行くなんて言うはずがないし、酒も飲まないでしょ」

行動を読まれていたのが恥ずかしくて答えられないでいると、の唇に柔らかいものが一瞬だけ触れた。
あまりにも唐突で驚いていると目の前でイルミが意地悪な笑みを浮かべていた。

「オレのために休みにしたって言えば良いのに」

優しく触れられたそこが一気に熱くなる。

「い、いきなり何するんですか!」
「素直じゃないなぁ」
「……待ってくださいイルミさん!」
「明日夜の11時に迎えに来るから」
「え、ちょ、ちょっと、な、何考えてるんですか!」
「言っておくけどオレはカウントが止まるなんて1ミリも思ってないから。だから罰として明日は1人で過ごして。でも絶対に迎えに来るしオレはが何て言おうと連れて行くから」
「ちょっと待ってってば! 」
「持って行けるのか分からないけど荷物の準備しておいて」

イルミはの話を聞かないで窓を開けるとベランダに立った。
銀色の柵に手をかけると一度振り返り「じゃあ明日ね」と言って柵に飛び乗るとその身を投げた。

「イルミさん!」

思わず声を上げてはマンションの下を見るがイルミの姿はなかった。
その代わりマンションの向かいに生えた木が微かに揺れた。
まるでそこに自分が居るとアピールしているように。
その一本が揺れたかと思うと隣の木が次々と揺れ、あっという間に静まり返った日常が戻ってきた。
今までそんな身体能力の高さを見せなかったイルミに対しはポカンと口を開けたまま外を見ていた。
これがイルミなりの”ずるい”に対しての答えなのかと思うとはその場に座り込んだ。


2020.08.05 UP
2021.07.27 加筆修正