パラダイムシフト・ラブ

66

イルミが出て行ったその日の夜、は眠れないで居た。
本当に自分に行く資格があるのか、本当にイルミの仕事を受け入れることが出来るのか。
家族皆が殺し屋の家系でちゃんとやっていけるのか。
それよりももしが向こうに行けないとなったとき、イルミはどうするつもりなのか。
考え出したらキリがなく、スマートフォンで”異世界”や”暗殺”などを調べてみるがこれといって参考になる検索結果は無かった。
うだうだしている間に徐々に太陽は顔を出し、部屋が次第に明るくなってくる。
もしかしたらひょっこり帰ってくるかもしれないと思って開けておいた窓の鍵だったが、それが開かれることは無かった。
体力と睡魔の限界が眠気を誘い出した時、スマートフォンから起床を知らせる音が鳴り響いた。

イルミの居ない部屋は静かだった。
いつも起きればテレビを見ながらコーヒーを飲む姿が今日は無い。
起きれば指輪の数字を教えてくれる声も無い。
1ヶ月前はこれが普通だったのに、いざ居なくなると静かで寂しかった。

いつもの癖でクローゼットからスーツを取り出そうとしていたは自分に笑った。
今日はイルミと1日話しをしてカウント0の日に備えようと思って有給を使った日だった。
はテレビをつけてイルミがいつも見ていたニュース番組にチャンネルを合わせた。
イルミの予告では今日の夜11時に迎えに来るというが、本人は時計を持っていない。
どうやって時間を知るのだろうかと疑問に思いながらは部屋の中心で立ち尽くした。

イルミは荷物の準備をしろと言ったが一体何を持っていけば良いのか分からなかった。
流石に部屋の家具等は無理だろうし、運ぶのが大変だ。
ならば通勤時に使用している鞄などなら抱えれば持って行けるのかもしれない。
は頭を抱えながら唸った。

「あぁあもう……どうしよう……何が必要なんだろう……」

そもそも本当に今日のカウントは1なのだろうか。
気になったはふと公園に行こうかと思ったがすぐにその考えを振り払った。
自分の中で答えを出さないといけない気がしたからだ。
此処で一人うじうじしていても時は進むだけ。
はゆっくりと周りを見渡して一つの結論を出した。

「……と、とりあえず、掃除、かな」

*****

キッチンから燃えるゴミの袋を束で持ってきたは自室でそれを広げた。
何年も前に購入した以来数回しか着用しなかったワンピースや宮前に貰ったアクセサリーを勢い良くゴミ袋に入れた。
背伸びして買ったフープピアスは捨てるのが勿体無かったが、過去の自分を断ち切るかのごとくゴミ袋に放り込んだ。
着飾らなくて良い物だけを残してどんどん袋に入れていくと気持ちがスカっとした。
テレビの横に立てておいたアルバムやノートも放り込み、デートの時にゲームセンターのUFOキャッチャーで取ってもらったぬいぐるみも躊躇いなくゴミ袋へと投げ入れた。
捨てるものが多くになるにつれの集中力も高まり、部屋がどんどん片付いていく。

掃除機もかけ、普段滅多にやらない窓拭きもやった。
久しぶりに身体を動かしたからか身体は汗ばみ、キラキラと光る雫が頬に流れる。
部屋の換気を行いながら次のターゲットをキッチンへと移し、使わない食器にもさよならを告げた。

次に目星をつけたのは脱衣所だった。
洗面台を磨き上げ、空っぽの洗剤容器を捨てるとスペースが増え、少しずつ綺麗になっていく様は見ていて気持ちが良いし、心が洗われるような気がした。
浴室のドアを開け、床を磨き、浴槽を丁寧に洗った後は漂白剤を撒いてドアを閉める。
肩で息をしながら手を洗って自室に戻ると掃除を開始してから4時間ほど経過していた。
昼時を示す時計を見ながら冷蔵庫の中の残り物を漁りタッパーに入った肉じゃがを取り出す時にイルミが好んで”また作って”とリクエストしていたのを思い出した。
向こうに行ったらキッチンに入らせてもらえるのだろうか。
もし可能ならまた作ってあげたいと、そういう気持ちが芽生えていた。

*****

「掃除って……ほんと体力」

片付いた部屋と縛られたゴミ袋が並ぶ一角を見ながらはソファに腰掛けた。
イルミの定位置となっている場所に座りながらイルミは日頃何を思ってこの部屋で過ごしていたのだろうと考えた。
今までの生活スタイルとは全然違う生活にイルミは弱音や文句は一度も言ったことは無かった。
郷に入っては郷に従えではないが、イルミは日本の生活に合わせようとしてくれていたことを改めて思うと自分は行く前から不安になっているのが悲しくなった。
自分とはあまりにもかけ離れた適応力の差に思わずため息が漏れる。
不安な部分もあるが、それを差し引きしても今は一緒に行きたいと思っている。
そのために、過去のものを全て捨てたのだ。

たった約1ヶ月の生活だったが、の中でイルミは大きな存在になっていた。
今更イルミ以上の人と出会える自信もなければ、イルミ以上に不思議でいろんな意味で強い人は居ないと思った。
それ以上にイルミの居ない世界で、また一人で歩いていくことが怖かった。

「これは……持って行こうかな」

洗面台から持ってきた滅多に使わない眼鏡を持ちながらは一人呟く。
眼鏡をかけているだけでそれをあだ名にされていた昔を思い出しながらは眼鏡を静かにテーブルに置いた。

イルミが来る前は仕事から帰ってくるとすぐにコンタクトを外して眼鏡で過ごしていた。
しかし、学生時代に受けた男の子達の言葉はのコンプレックスで変に思われたくなくてイルミの前ではコンタクトで居た。
そんな中、コンタクトレンズの在庫を切らしたことでかけた眼鏡をイルミは悪く言わなかった。
本当は置いていく気持ちではあったが、どんな見た目でも中身を見てくれそうなイルミを信じて持っていく事を決め、すぐにそれを掴んで脱衣所へと向かった。
コンタクトレンズを外して眼鏡をかけると昔のように男の子達の視線に怯えていた自分が鏡に映るがどこかスッキリしている表情をしている。
自分に自信がなく、漫画のようなロマンチックな恋愛は絶対に出来ないと思っていた自分はもう何処にも居ない。

*****

風呂の漂白剤を流すと白い床や壁が光って見えた。
少し鼻に塩素の匂いを飛ばすためにはドアを開けたまままた自室へと戻るとソファに横になり、撮り溜めしていた未消化のドラマを再生させた。
ぼんやりしながら自分の恋に真っ直ぐに生きる主人公を見ていると羨ましく思えた。
自分も行く前にちゃんとイルミに言えるだろうか。

うつらうつらとなる意識に抗おうとするもその倍の眠気がを襲う。
夜も眠れず、朝から身体を動かした疲労が暇頃やってきたのか、はドラマの声を聞きながらゆっくりと瞼を閉じた。
どんどん話が進んで行くドラマとは反対にはどんどんと眠りの道を歩んだ。

すっかりあたりは真っ暗になり、皆が明日に備えて寝る準備を始める頃、の部屋の窓がゆっくりと開いた。
黒髪を靡かせて「よいしょ」と入ってきた人物はソファで眠るを見て「やっぱり」と小さなため息を零した。
遠慮なく部屋に入りの横を通り過ぎてキッチンへと向かうとスッキリ片付いているキッチンを見て少し驚いたような表情をした。
電気ポットに水を入れ、戸棚を開けるとイルミが愛用していたカップとのカップだけが残されていた。

電気ポットが沸騰を告げるまでイルミはキッチンに寄りかかってその時を待っていた。
数分後にはポットの注ぎ口から湯気が立ち上り、それを準備しておいたカップに注いでが眠る室へと戻った。
未だ起きる気配の無いを見ながらイルミは仕方なくクッションの上に腰を下ろした。
いつもの定位置が取られたのと自分が居るのに起きないに手持ち無沙汰を感じたイルミは小さな声での名前を呼んでみた。

「ん……」

「ん、んー……」
ってば」
「……んん」

なかなか起きない。
どうしたものかと考えたイルミは何か閃いたかのように目を開き、眠るの耳元に口を寄せた。

「0時になるよ」
「……嘘!」

勢いよく飛び起きたを見てイルミは「おはよう」と言った。
ずれた眼鏡を慌てながら戻したは数回瞬きをしながら「嘘?」ともう一度口にした。
その慌てように「嘘だよ」と言ったイルミは少しだけ笑った。


2020.08.05 UP
2021.07.27 加筆修正