パラダイムシフト・ラブ2

8

層を重ねた卵焼きは上手く焼く事が出来たが、急ピッチな作業だっためにご飯は早炊きのせいもあってか少し硬い仕上がりになってしまった。
ダイニングルームで待つイルミの前に卵焼きが乗った皿と茶碗を目の前に置いて隣に腰掛けた。

「箸もお茶碗もお米もあるとは思いませんでした」
「……あぁ。じぃちゃんの趣味かな。ジャポン製品が好きみたいでよく買ってくるんだよ」
「ジャポン? なんだかジャパンみたいですね」
「ジャパン?」
「英語……という言語がこっちにあるのか分かりませんが、英語という言語で日本の事をジャパンって言うんですよ」
「ふーん」

無表情で卵焼きに箸に伸ばしたイルミはそれを持ち上げるとまじまじと見つめた。
「一見普通の卵焼きですが、日本では厚焼き卵って言って何層も重ねて」とが得意げになって説明をしている間にイルミはそれを口に放り込んだ。

「……甘い。いや、甘すぎる」
「その甘さが我が家の味ですよ。どうですか?」
「うん。悪く無いかも」
「……さっきみたいに美味しいって素直に言えば良いのに」
は食べないの?」
「緊張しすぎて食欲吹っ飛んじゃいました」

は苦笑いを浮かべながら黙々と食べるイルミを頬杖をついて見つめた。
目の前にはイルミが居て、知らない廃墟に来たかと思えば金持ちの買い物を体験して、飛行船でうたた寝をしている間にお屋敷について父親と祖父に挨拶をした。
本当に自分は日本に居ないことを改めて痛感し、不安もあるがイルミ以外自分を知らない環境で、自分の意思を持って自分の人生を歩める事に少しばかり楽しさを感じていた。
まだ家族の全員や執事と出会ったわけでは無いが、焦らず少しずつ自分を認めてもらい、最終的にはイルミに自分を意識して欲しいと思った。

「本当に、明日からお仕事なんですか?」
「うん。そう言っただろ?」
「……本当に忙しいんですね」
「まぁね」

ご飯を頬張るイルミはいつも通りの表情だった。
イルミは「でもこんなこと初めてだなぁ」と箸を茶碗の上に置くと一息ついて椅子に凭れ掛かった。
そんなイルミに「そんなに多く、任されちゃったんですか?」と問うと「1ヶ月ぐらいの量かな?」ととんでもない事を言われた。
思わず片付けようとした茶碗を落としそうになりは動きを止めた。

「い、1ヶ月……ですか?」
「うん。素性が割れてるなら早いんだけど、ちょっと面倒臭そうなのがいくつかあってね」
「そ、そう……ですか。売れっ子は、大変ですね」

とは言ったものの本当に大変なのは自分の方なのでは無いかとは思った。
明日から約1ヶ月間、イルミの力を借りずにこの屋敷で生きていかなくてはならない不安に動揺が隠せなかった。
それ以上何も言わないとイルミ。
汚れた食器をキッチンへ運ぶの背中を追いかけるイルミは青白くなっているの顔を見ながらカップボードからマグカップを二つ取り出した。

こそ素直に言えば良いのに」
「な、何がですか」

が振り返るとイルミはコーヒーの準備をしていた。
流石実家という事もあり動きも無駄がなく、慣れた手つきでマグカップをコーヒーメーカーにセットするとスタートボタンを押していた。

「ん? ”一緒に連れてけ”ってさ」
「……逆にその発想はないです。私が行ったところで、邪魔になるだけですし」
「確かに。言われたところでオレも連れてかないけど」

お世辞の無いイルミの言葉には笑った。
変に気を使われるよりよっぽど楽で、今の自分の立ち位置を再確認させてくれるその言葉に少しだけ救われた気がした。
イルミに頼ってばかりでは駄目だ。
自分でなんとかしてこそ、自分の人生だ。
は洗った食器類を水切り場に置くと台布巾で水滴を拭い取った。

「正直、イルミさんが居ないのは……心細いですが……これからお仕事で家を開ける日なんて、いくらでもありますよね」
「うん」
「慣れるのには、丁度良いですよ」
「ふーん」

ピカピカなシンクをぼんやりと見つめているとふいにイルミが横に立つ。
の顔を覗き込むように身を屈めるイルミと目が合い「何ですか?」と聞くと頬にかかる髪の毛を耳にかけられた。

「でも、今夜は居るから」
「そ、そ、う……ですね」

耳にかかる指が気になって思わず息を飲んだ。

「今日しかチャンスはないよ?」
「チャンス? 何の、ですか?」
「ん? この前の続きの」
「……す、すぐそういう方向に考える! 明日からお仕事なんですから今日は大人しく寝るのが一番です!」
「チェッ。つれないなぁ」

イルミはすぐにの髪の毛から手を離してキッチンから出て行ってしまった。
は早まる鼓動を落ち着かせるために胸に手を置きながら一度大きく深呼吸をした。
自分がイルミにとって本当に”そういう対象”として見られている自信が持てるまでは油断出来ないと感じでもキッチンを後にした。


2020.09.03 UP
2021.07.28 加筆修正