パラダイムシフト・ラブ2

26

激しく降りつける雨の中、は濡れ鼠となってゴトーの後を追いかける。
履いていたサンダルは泥だらけになり、折角イルミに買ってもらった洋服も雨水と跳ねた泥で茶色く黒ずんでしまった。
それでもはゴトーを追いかけ、果敢にも食らいついていく。
そんなを見てゴトーは小さくため息をついた。

「泣き喚こうがオレは知らねぇからな」

執事達が生活する別館に到着し、は「わ、私、濡れてるけど大丈夫ですか?」と肩で息をしながらゴトーに尋ねるが反応は無かった。
無言のゴトーは丁寧に傘を畳み、重たい扉を開いてを別館に招き入れた。
がこの別館に来るのは2回目だが、どのタイミングも駆け足であまりじっくりと中を見た事がなかったため改めて内装を見渡した後、思わず「やっぱり豪華だ……」と口から漏れた。
髪の毛から滴る雨水を目で追うと、足元には水溜まりが出来ておりなんだか綺麗な内装を汚しているような気がして場違いな気がした。

「あ、あの、私本当にこんなずぶ濡れで……良いんですか?」
「あ? 良い訳ねぇだろ馬鹿か」

不機嫌そうな顔をするゴトーには顔を引きつらせながら「で、ですよね」と返すとゴトーは声を張り上げた。

「カナリア!」
「は、はいっ! ただいま向かいます!」

は何処から声がしたのか分からずキョロキョロと辺りを見渡すと、すぐにドレッドヘアーの女が階段を慌てた様子で駆け下りてきた。
ゴトーと同じように黒の燕尾服を身に纏うがタイの色だけが違った。
カナリアと呼ばれた女性は十代に見えたが、身の振る舞いが自分よりもしっかりしておりは口を開けて感心してしまった。
どういう経緯で執事をやっているのかは分からないが、きっと代々ゾルディック家に仕えている家系の子なのだろうとぼんやり考えているとゴトーの「様を着替えさせろ」の言葉で現実に戻された。

「で、終わったら2番ホールに連れてこい」
「承知致しました。着替えは私の物で大丈夫でしょうか?」
「出るとこ出てねぇし大丈夫だろ」
「え!? で、出るとこ!?」

そういうところも見られていたとは知らず、は思わず胸元に手で隠した。
小さくも大きもなく、人並みぐらいだろうと思っていたが、この世界の人達と比べると寂しいサイズなのかと思うと少しショックだった。
一歩間違えればの世界ではセクハラとして訴えられてもおかしく無い発言だが、カナリアは何も言わずに小さく頷いた。

「畏まりました」

誰も何も言わない現実には驚いた表情で固まっているとゴトーが「逃げるなら今の内だがな」と笑う。
それを見ては目を細めながら「もう逃げないって決めたんです」と決意の言葉を口にした。

「さ、行きましょう様」
「……はい」

カナリアに背中を押されてはその場から離れた。
この後過酷な試練が待っているとも知らずに。

*****

「中の物はご自由にお使い下さい」

通された場所は執事達が使用しているという風呂場だった。
扉を開けると大人3人ほどが入れそうな大きな湯船があり、は目を輝かせながら「大きいですね!」と興奮するとカナリアは小さく笑った。

「此処は時間制で執事達全員が使用しております。この時間は誰も使用しませんし、清掃済みですので気兼ねなくお使い下さい」
「……なんていうか、私みたいな謎な人間にもこうして優しくしてくれるのって凄く……有難いです」

はカナリアに振り返って「ありがとうございます」と笑顔で言うとカナリアを息を飲んだ。
驚いたような表情をしているのが気になり首を傾げると「雇い主のお連れ様であれば当然のことです」とカナリアは小さく横に頭を振った。

「イルミ様のお連れ様と聞いていたのでもっとその……凄い方かと思ってたんですけど、様は我々に普通に接してくれるんですね」
「わ、私はただの一般人でイルミさんのおまけとして転がり込んだだけですから……普通もなにも、ないですよ」

何となく”お連れ様”と言われるのがむず痒かった。
他の執事は自分の事をどう思っているのか。
そんな事が気になりながらも濡れた服を脱ぐとカナリアがすぐにそれを拾い上げる。

「こちらは洗ってお返ししますね」
「え?」
「執事長からは事前にそうするよう言われておりますので。濡れて来るだろうと」

さも当たり前のように言うカナリアを見ながら「事前に?」と聞くと「えぇ。事前にです」と返ってきた。

「私の事はお気になさらずに。此処でお待ちしておりますので」
「……な、なんだか緊張します」
「執事長からの命令ですので。どうぞお気になさらずに」

見られているのはどうも落ち着かないが、冷えた身体が早く湯船に浸かりたいと震える。
仕方なくは下着を取り、カナリアから手渡されたタオルを身体に巻き付けてタイル張りの浴場へと足を踏み入れた。
脱衣所で待っているカナリアが気になってしまい結局は身体と髪の毛を洗った後、少しだけ湯に浸かるだけにした。
脱衣所に戻り、濡れた髪の毛を乾かしているとカナリアが一着の服をの目の前に置いた。

「こちらが着替えです。下着は、流石に様の部屋に入るわけにも私の物をお貸しするわけにもいかないので乾くまでは辛抱頂けますか?」
「き、着られるものがあるだけ十分なんですけど、でもこれって……」
「私のスペアです。サイズは……多分大丈夫かと」

カナリアを見ながらは遠慮がちに黒の燕尾服に触れる。
髪の毛を乾かし終わるとはワイシャツの袖に腕を通してみたが少し大きかった。
下着がないことが凄く不安だったが背に腹は変えられない。
燕尾のジャケットを羽織って鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめた。
まるで何かのコスプレをしているようで壊滅的に似合わないと思ったが、カナリアがお世辞でも「お似合いですよ」と言ってくれたのが少しだけ嬉しかった。
そういえば以前イルミに執事の仕事を訪ねた時、”制服が似合わない”と言われたのを思い出して「着られてる感半端ないですね」と笑ってしまった。
「こちらもどうぞ」と出されたパンプスに足を入れると怖いぐらいにフィットした。

脱衣所を出てカナリアの後を付いていくと、重たそうなドアを開けて2人は薄暗い階段を降りた。
響く足音はのものだけでなんだか自分1人だけで歩いているみたいで怖くなり、思わず前を歩くカナリアの肩に手を伸ばしてしまった。
驚いたように振り返ったカナリアに「ちょっと、不安で」と言うとカナリアは小さく笑ってまた歩き出しす。
まっすぐの通路を歩いて行くと大きく数字の2が書かれた鉄扉が見えてきた。

「あれが……2番ホールってやつですか?」
「はい。この別館には1から3までホールがありまして地下にある2番ホールは説教部屋として使われています」
「説教……部屋?」
「眼鏡、お預かりしますね」
「え、え……」

カナリアの手がの顔へと伸び、かけていた眼鏡を優しく奪われた。
少しぼやける視界に戸惑っているとカナリアはドアをノックして鉄の扉を開けた。
「失礼します」とドアを開けたそこにはダンスホールのような作りになっており、眼鏡が無くとも部屋の中心にゴトーが立っているのが分かった。
「たかが風呂にどれだけ時間かけてんだ」と眼鏡のブリッジを指で押さえるゴトーに小さく「すみませんでした」とは謝った。
怯えるを横目にゴトーはカナリアに出て行くよう言うと必然的に2人きりになってしまい、途端にの身体に緊張が走る。

「さてと、どこから話すか」
「で、出来れば最初から……お願いします」

ゆっくりと近づくゴトーだったが、が瞬きをした時、の乾かされてサラサラの髪の毛の隙間をコインがすり抜けていった。
ふわりと揺れるサイドの髪の毛には思わず息を飲んだ。
いつの間にゴトーがコインを出したのか、そしてそれをいつ投げたのかには全く見えなかった。

「察してる通りオレはイルミ様に言われて使えないグズを”鍛えて”やってる」
「……うわっ!」

今度はコインがの腰をかすめる。

「この家で真っ当に生きたいなら、最低限身につけなくちゃいけねぇものがある」
「ちょ、ちょっと待っ!」

ゴトーが投げたコインがの肩に当たる。
痣になるような痛さではないが、痛いものは痛かった。

「警戒心と危機感だ」
「……ッ!」

今度はコインが脇腹に当たる。
ジンジンする痛みにが顔を歪めてうずくまると目の前まで歩いてきたゴトーがを見下ろす。

「お前はそれがどちらも致命的に欠けてんだよ。イルミ様の、いや、ゾルディック家に身を置く気で居るんならクリアしてもらわなきゃ話になんねぇし、テメェの事も守れねぇような奴は誰も認めねぇ」
「……そ、そう、言われ……ましても」
「立て。”一般人だから出来ない”なんて寝言は死んでから言え」

冷たい目と冷たい口調には身体を震わせながら分かったことが一つだけあった。
あのコインから逃げないととんでも無いことになるかもしれないということだった。


2020.10.08 UP
2021.08.02 加筆修正