パラダイムシフト・ラブ2

29

が深い眠りから覚めたとき、部屋は真っ暗でイルミの部屋では無い事だけはすぐに分かった。
頭の片方だけが酷く痛み、手を添えると脈打っているのを感じながら最後の記憶を思い出してみる。
息も吸えないぐらい疲労で視界がぐるぐる回り、迫るゴトーのコインに死んでしまうかと思った時に夢を見た気がした。
結局自分はどうなったのだろうか。
毛布を退けると風呂を借りる前に着ていた服を身につけており、まるで本当に夢を見ていたかのようだった。
それでも夢じゃないと思えたのは今居る部屋がイルミの部屋ではないからだった。

「え、誰……?」

誰もいないはずなのに人の気配を感じた。
足を引き寄せ、周りの音に集中すると窓を何かがコツンと叩いた。
カーテンのかかった窓にゆっくりと顔を向けるとおぼろげに人のような影が見え、思わず叫びそうになった。
身体のだるさは抜けないが外に居る気配がただただ不気味では本能的にベッドの角へと身を寄せた。

「……誰? もしかして……イルミさん、ですか?」

小さな声で願望が漏れると窓がゆっくりと持ち上げられる。
夜風に靡くカーテンの隙間から見えたのはイルミとは違う男。
細い切れ長の目がを舐めるように見つめるものだからは咄嗟に叫ぼうと口を開いたが、それは叶わなかった。
口元を何かが塞いだ。
手で触れてみると口を塞いでいるのは長方形の紙だったがまるで瞬間接着剤でも使ったのかと思うぐらいに剥がれない。

「これ上げて開くタイプなんだね。ボク分からなかったよ」

ゆっくりと部屋に侵入してきた男はぼやけてよく見えず、視界をはっきりさせようと目を細めると奇抜な格好とトランプのマークが頬に施されたメイクが見えた。
その風貌は何処かで見たことがあった。

「本当はお姫様に開けて欲しかったんだけど……」

侵入してきた男は「我慢出来なくなっちゃったよ」と笑いながらベッドに膝を乗せてに近づいた。
なんとなくだが嫌な感じがした。
不気味で何を考えているのか分からない雰囲気には懸命に足を動かして男を寄せ付けないように努めたが、簡単に足を押さえ付けられてしまいは目を見開いた。
頭の中でゴトーの言葉が繰り返される。
”いつも誰かが守ってくれるなんて幻想は捨てろ。自分の身は自分で守れ”と言われた言葉にの心拍数が上昇する。
誰も助けてくれない今、自分でなんとかしなくてはいけない。

伸びてくる手には堅く目を瞑ると、人差し指がの頬を撫でる。
クスクスと笑う男の声が妙に印象深かった。
しかしまだ、反撃の時ではない。

「お姫様はどんな味がするのかな? 他人に興味を示さないイルミが気にするぐらいなんだから、さぞ美味しいんだろうねぇ」

頬を撫でていた人差し指がの口を覆う紙を撫でる。

「甘いのかな? それとも、血の味がするかな?」

近く顔に恐怖を覚えながらは”今だ”と感じた。
渾身の右手を振り上げると男の頬にクリーンヒットし、部屋に乾いた音が響き渡った。
身を守るために手を出したが、当たった事なんて一度も無かっただけには焦りを隠せなかった。
肩で息をしながら男を見ていると、男は頬に手を当てながら薄ら笑いを浮かべた。

「威力はまだまだみたいだけど……今の一発、悪くないよ」

男がゆっくりと瞬きをしたあと、熱の籠らない冷たい目をに向けた。
その瞬間、体の毛穴が開くような感じがした。
冷たい絶望的なドアを開けてしまったかのように鳥肌が立ち、全身から汗が吹き出るのを感じた。
間違いなく殺される。
そう思っても体は動かず、生理的に涙が目に溜まり始めるが瞬きさえも許してもらえなかった。

「でもね、本当の一発って言うのはこうやるんだよ」

は強引に目を瞑ったが痛みが襲ってくる気配は無かった。
恐る恐る目を開けて男を見ると「なーんちゃって」と両手を上げてニコリと笑う。
先ほどの緊張感はなくなっており、は眉を寄せながら涙を流した。

「あぁ……泣き顔もそそるよ! こんなに美味しそうなお姫様を独り占めしようとするなんてイルミも性格が悪いなぁ」

突然出てきたイルミという名前には大きく目を開いた。
そこでやっと記憶が繋がった。
こちらの世界に来た時廃墟に居た男にそっくりで、名前は確か。

「覚えてるかい? 廃墟で一度だけ会ったけど、ボクはヒソカ。イルミがしょっちゅう君の話をするもんだからどんな果実か見に来たんだ」

確か友人ではなく”仕事仲間”だったはず、とは思ったが口を塞がれていて言えなかった。

「で、この額は? 赤くなってるじゃないか」

伸びてきた手がの額に優しく触れる。
コインを受け止めたことで出来た赤みを見られるのが恥ずかしくてその手を払うように頭を振ると、「可愛いなぁもう」と笑うヒソカをは睨んだ。

「ダメだよ、女の子は顔を大事にしなくちゃ。ちゃんと隠しておいたほうが良い。じゃないとその度に携帯を用意しなくちゃいけないからさ」

軋むベッドの音がやたら大きく響いた。
自分の上に影を作るヒソカを見あげるとふいにヒソカの顔が近付き、は慌てて頭を左右に振るが頬包み込む冷たい両手に肩を強張らせると額に優しくキスされた。
額に感じた唇の感触に小さく叫ぶが言葉にはならない。

「殺気でバレちゃったからこれ以上はしないよ」

は額を手で覆いながら信じられない物を見る目でヒソカを見ると、何事も無かったかのようにヒソカはベッドから降りて指を鳴らした。
その音に反応して口元を覆っていた紙がの膝の上に落ちる。

「今のは赤みが良くなるおまじない」

目を細めて口元だけで笑うヒソカは幻想的で思わず息を飲んだ。
落ちたカードを手に取るとそれがトランプのカードだったことが裏返してみて分かった。
ペラペラのトランプは確かにの口を塞ぐ程強力にくっついていたのに、今はなんの変哲もないカードに見えた。
ハートのQのカードに書かれた手書きの”寂しかったら電話して”というメッセージと共に記された電話番号を問おうとするとヒソカは「シー」と言いながら人差し指を自身の唇に当てた。

「質問はまた今度。じゃあね、お姫様」

それだけ言うとヒソカは窓から出て行った。
追いかけようと身体を動かしたが疲労がまだ残っているのか身体は重りをまとっているかのように重たかった。
残されたカードを見ながらはその文字を指でなぞる。
離れていても間接的にイルミと繋がれるものができて嬉しかったはそのカードをどこにしまっておこうか迷っているといきなり部屋のドアが開いた。

「侵入者は何処だ……!」

は咄嗟にカードを枕の下に隠し、血相を変えて入ってきたゴトーを目で追った 部屋に入るなりゴトーは開いている窓に駆け寄ると身を乗り出して周囲を見渡してから「遅かったか」と舌打ちをした。
ゴトーが空いていた窓を静かに閉めるとに視線が移り、隠したカードがバレたのかと思ったは身体を固くさせながらゴトーを見つめた。

「おい、グズ。侵入者はどうした!」
「か、帰り、ました」
「帰っただぁ?……何もされてねぇだろうな」
「何も……されて、ません」

はカードの存在がバレてない事に安堵しながら何度も頷いて見せた。
それでもゴトーは納得していない様子でをただじっと見つめる。
少しでも表情を動かせばバレてしまいそうな緊張感が部屋を包み、耐え切れなかったは唇を噛み締めた。

「本当だろうな?」
「ほ、本当、です」
「……なら泣くんじゃねぇ。泣くぐらいならオレを呼べ。何があった?」
「え……な、泣いてないし何も、ないですよ。やだなぁ……これは寝起きで欠伸した時の、涙の跡ですよ」

必死で誤魔化そうとすればするほど墓穴を掘っているような気がしたの声がだんだん小さくなる。
本当は殺されるかもしれないと怖かった。
しかし、この家で生活していくには自分の身は自分で守らないといけないという考えが先行してしまい助けを呼んではいけないと思った。
怒られるのとはまるで次元が違うあの全身を這うような嫌な雰囲気を思い出すと自然と涙ぐむ。
俯きながら目をこするとゴトーが「いいか」と切り出した。

「この屋敷に居る以上はどんなグズだろうがオレの管轄下だって事を忘れんな」
「……で、でも……自分の身は、自分で……守らないと……甘えっぱなしは、ダメ、ですから……」
「テメぇに何かあったらこっちが困るって言ってんだよ。それぐらい分かれ」

言葉は強いがゴトーなりの優しさを感じた気がした。
捉え方によっては”面倒事を起こされたら困る”と聞こえるかもしれないが、これまでのゴトーの振る舞い方を思い返すとには自分の身を案じてくれているように聞こえた。
溢れる涙を拭いながら小さく「ごめんなさい」と言うと、深いため息が聞こえた。

「世の中には頑張りだけじゃどうにもならねぇ事もあんだろ。キャパ越えな事をすんのは馬鹿とグズだけだ」
「……はい」
「ならさっさと顔を上げろ」
「む、無理……です。酷い顔、してますもん」
「元から良くねぇんだから泣いてたって今更変わんねぇよ」

「ひ、酷い!」と弾かれたように顔を上げると痛くはなかったが額に小さな衝撃を受けた。
膝の上に落ちたコインを手に取りながらは「これは……?」とゴトーに問うと視線を逸らされた。

「やるから持っとけ」
「え、くれる……んですか? でもこれって、ゴトーさんの……」
「それが5枚集まりゃ認めてやるよ」
「ど、どういう事ですか?」
「オレ達執事はまだゾルディック家の敷地内にテメェが居る事を認めてねぇ。認めて欲しけりゃ今日みたいに捕まえろ」
「今日みたいに……?」

全く記憶にないがコインを握りしめると少しだけ暖かかった。
まるで誰かの温もりを含んでいるかのような暖かさには眉間にしわを寄せた。

「明日も朝からやるから覚悟しとけよ。分かったらさっさと寝ろ、ブス」
「ブッ……ブス!?」
「明日は起こさねぇからテメェで起きろよ」
「あ、あのゴトーさん!」

手をひらひらと振ってドアへと向かうゴトーを目で追いながらはコインを握りしめた。
振り向かない背中に「が、頑張ります!」と言うと「良い夢を、様」と執事の顔で振り返ったゴトーは頭を下げて出て行った。


2020.10.11 UP
2021.08.02 加筆修正