パラダイムシフト・ラブ2

40

次の日からは朝のコインとの鬼ごっこ、午後からは執務室のドアを開ける特訓を繰り返していた。
コインから逃げられるのも大分慣れたが、目標の3時間逃げ切れるようになるまでに1週間近くかかってしまった。
肩で息をし、汗だくになりながら額を袖で拭うの膝は震えていたが、それでもその場に踏ん張り続ける姿にゴトーは鼻で笑った。

「タイムリミットだ。ま、上出来っちゃー上出来だな」
「え……?」
「昼だ。さっさと食堂行ってこい」
「嘘……え? 嘘じゃ……ない、ですよね?」

ゴトーのコインから必死に逃げていたはゴトーの言葉を聞いて足から力が抜け、その場に座り込んだ。
2番ホールには時計が無いため時間の感覚はに無く、聞いた言葉が信じられず、ゴトーを見上げながら何度も「嘘? え? 嘘じゃ、ない?」とうわ言のように繰り返した。
そんなの前に立ったゴトーは未だに事実を受け止めきれていないの頭に手を乗せながら「12時だ」と汗で湿っている髪の毛をぐしゃぐしゃに撫でた。
は眼鏡がズレたことすら気に留めずゴトーを見上げていた。
まるで壊れたロボットのように「あ、え、あぁ……えっと」と思考が停止しているに仕方なくゴトーはスラックスのポケットから懐中時計を取り出して文字盤を見せる。

「これで信じられるか?」
「え、ほ、ほんとだ……もう、12時……なんですね」
「さっきから何度も言ってるだろ。本格的にグズになり始めんじゃねぇよ」
「その、ま、まだグズは……卒業出来ないんでしょうか?」
「気にするところはそこかよ。ほら、さっさと行け。無くなっても知らねぇぞ」

は身体を支えながら立ち上がると途中で投げ捨てたジャケットを拾いに行く。

「それと、忘れもんだ」
「え? 忘れ物……ですか?」

ドアに手をかけたところでは振り返った。
ゴトーはおもむろにコインを一枚取り出すとそれをに向かって投げる。
特訓は終わったと思い込んでいたは反応が出来ず、慌てるとゴトーが「掴め!」と叫ぶ。
迫るコインに集中し、はダメ元で飛んでくるコインの軌道に手を合わせ目を瞑ると同時に手を拳に変えた。

「その感覚を忘れんじゃねーぞ」

ゆっくりと目を開けたは手を開いてみるとピカピカに磨かれたコインが顔を出した。
目を丸くさせながら震える声で「有難う御座います!」と言とゴトーは”早く行け”と手で追い返すような仕草を見せた。
小さな身体の割に図太い根性を持ったその背中を見送るゴトーはすぐに携帯電話を取り出した。

「ゴトーです。回避は問題無いですが、パワーがまだ不十分です」
「そうか」

聞こえた渋い声にゴトーは目を瞑りながら「ミルキ様の方はいかがですか?」と問う。
「珍しく手こずっているようだ」と返ってきたがミルキを心配しているような声色では無かったことに小さくため息を漏らした。

「本当に参加させるおつもりですか?」
「それはどちらの心配をしているんだ?」
「……無論イルミ様です」
「そうか。てっきりの事かと思ったが、まぁ計画通りだ」
「承知致しました」

ハンター試験の内容を全く理解していないを受験させるのは無謀だと感じていたが、雇い主であるシルバがそう言うのであれば異論は無い。
ゴトーは頭を掻きながら2番ホールを後にした。

*****

昼職を食べ終えたあと、ゴトーの執務室に行くと”オフをやる”と言われたは午後は久しぶりにのんびり過ごした。
外を散策した後、日向ぼっこをしていたゼノを見かけて話し相手になってもらっていた。
二人で玄関の前に座り、青空を見上げながら気になっていた家族の事や、家業の事を聞いた。
そして、一番気になっていたキキョウの事も。

「やっぱり、母親の立場からしたらポっと出の私は簡単には受け入れられてもらえませんよね」

つい本音が溢れるとゼノは少し困った表情を見せた。

「キキョウさんは決して悪気は無いんじゃ」

その言葉が意味深に聞こえたは思いきって「何か、あるんですか?」と聞いてみた。
勿論返ってきた言葉は望んでいた回答ではなく、優しい笑みを浮かべながら「お嬢さんはお嬢さんが出来る事をしとれば良いんじゃよ」とはぐらかされてしまった。
この話はどう突いても正解が見えない気がしたは話題を変える事にした。

「あの、以前話していたハンター試験の事なんですけど……死ぬ人も出るぐらい、危険なんですか?」
「……どうじゃろうな。わしが知っとる試験はもうだいぶ昔じゃが、簡単な時もあれば合格者が居ない時もあったようじゃからのぉ」
「やっぱり、危険だからイルミさんは試験を受けないんですか?」

ゼノは間髪入れずに答えてくれた。

「いや、あやつの場合は面倒臭いだけじゃよ」
「……そんな感じがしますね」
「興味のある事しかやらん奴じゃからなぁ。困ったもんじゃ。どんなに見合いの話が来ても”興味ない”の一点張りじゃったから、お嬢さんを連れて来た事は奇跡じゃよ」
「そう、なんですか……」

ゼノの話を聞いてイルミの此処での生活がどれだけ淡白なものだったのかを知った。
寝て起きて仕事に行く。
ただそれだけの繰り返しで、その生活はまるで日本に居た時の自分にそっくりだった。
そんな生活で良いのかとか思いながらも生きて行くには仕方ないと思って過ごしていた自分とイルミが少しだけ重なる。

「仕事を……嫌だと言った事は無いんですか?」
「無いのぉ。”そういうもんだ”とわしらに教えられて育ったからかもしれんがな」

生まれた時から自分の人生のレールが引かれているのはどんな気分なのだろうか。
”そういうもんだ”と言い聞かせられ、本当にやり事が見つかったとしても出来ない人生というのはとても悲しいように聞こえた。
自分に生活を変えられる程力があるわけではないが、自分の生活を変えてくれたようにイルミの生活も少しでも変えるにはどうすれば良いか考えているとゼノはゆっくりと立ちあがった。

「ま、そんなイルミがお嬢さんを連れて来たんじゃ。自信を持つと良い」
「自信、ですか」
「お嬢さんを連れてきたあの日、わしらはイルミと話したじゃろ? そしたら、”を迎えてくれないなら家を出てく”と言い出してそりゃ驚いたもんじゃ」
「え……そ、それは、初耳です……」

手で服についたゴミを払い落とした後、ゼノは唇に人差し指を当ててにウィンクした。

「本人は言わんじゃんろうかなら。内緒じゃよ」
「……分かりました」
「少なくとも前みたいな人形っぽさが無くなってわしゃ良かったと思っとる。異国、いや、どこか違う所から来たお嬢さんのおかげかの?」
「えっ」
「さて、わしゃ昼寝じゃ。老ぼれの話に付き合ってくれて有難うな」

ゼノは小さく笑いながら屋敷へと戻っていった。
一人取り残されたは今しがた聞いたゼノの言葉に焦りを感じていた。
もともとは山で拾われたという話から始まり、今は流星街という未知の都市の出身という事になっているはずだったが、ゼノははっきりと”どこか違う所”と言った。
はボロを出した覚えは無いが、ゼノは確実にがこの世界の出身でない事に気がついている様子だった。
気持ちの良いそよ風がの気持ちを落ち着かせるように吹き、髪の毛が揺れる。


2020.11.02 UP
2021.08.03 加筆修正