パラダイムシフト・ラブ2

42

眠い目を擦りながらは着替えを済ませ、ゴトーの執務室へと向かった。
この頃から少しばかり存在が馴染んできたのか他の執事と挨拶をする程度までにはなれたが、まだまだ雑談が出来るまでにはならなかった。
距離を置かれていることを感じながらは執務室の前に立ち、ノックをする。
ドアを開けてくれたゴトーには頭を下げながら挨拶をし、中に入れてもらった。

「ところで、お前はこの前の事を覚えてんのか?」
「この前……とは?」

はゴトーのデスクの前に立って眉間に皺を寄せた。
心当たりが無さそうなにゴトーが先日のこの部屋での特訓の話を尋ねると、は断片的に覚えている事を正直に告げた。

「そうか。ならこの前みたいにやってみろ」
「この前……えっと、私……最後どうなったんですか?」
「あ?」
「結局……私は、また倒れたんですか?」
「それしかねぇだろ。分かったらさっさとドアを開けて出ていけ」
「……はい」

言われるがままにはドアの前に立ち、ドアノブに触れた。
しかし、いくら引いても動かず、あの時のような勢いが生まれない。
あの時の事を思い出しながらやってみるも上手くいかず、最初の時のようには後ろに転がる。
何度も挑戦するの背中を見ながらゴトーは考えていた。
あの時、1センチだったがドアを開けた時の集中力がには無かった。
結局昼過ぎになっても開けることが出来ず、の手は真っ赤になりところどころに水膨れが出来ていた。
力が入らない程に手が痛んでもはドアノブに手を伸ばす。

「おい。意地になんなよ」
「……なりますよ」
「午後にも同じ事をすんだから今は諦めろ」
「嫌です」
「おいグズ、上司の言うことを聞けねぇって言うのかよ」
「お願いします……やらせて、ください」

痛みには耐えられても涙だけは耐えられず、の頬に雫が垂れる。
涙を袖で拭いながらドアノブに触れると痛みが走る。

「うぅ……!」

悲鳴を堪えながら引くも、それは反応しない。
渡された仕事をまとも出来なかった頃、上司にこっぴどく詰められたことをは思い出していた。
”何でお前は出来ないんだ!”と言われ続けたあの日の記憶がふつふつと蘇る。
営業資料を目の前で机に叩きつけられ、同僚や先輩社員たちの前で詰められ続けた営業時代。
全然営業マンとしの芽が出ず、同僚達にも成績を追い越された苦い思い出。
ここでやらなきゃ見捨てられる。
そう思ったが、の手には力が入らない。
震える手でもう一度ドアノブに手を伸ばした時、ゴトーがその手首を掴んだ。

「止めろっつってんだろ」
「でも……でも……」

はその場に座り込んでしまい涙を零した。
そんなにゴトーは腕を組みながら一つの事実を教えてくれた。

「……あの日、お前は確かにぶっ倒れたが、ドアが1センチ開いた」
「……え? これが……ですか?」
「その時のお前は別人かと思った。なんで今日はそれが出来ねぇんだよ」
「別人って……言われても……」
「開ける方法を思い出すまでこの特訓は無しだ。今より……酷くなるぞ」

ゴトーにそう言われては自分の手をまじまじと見つめた。
水膨れは潰れ、皮が少しめくれていた。
ビリビリと痛む表面を見てからはゴトーを見上げた。

「よく思い出せよグズ」

そう言われては執務室から追い出された。
思い出せと言われて簡単に思い出せるものでは無い。
それよりもまずはこの手を何とかしなくてはと思い、はカナリアを探すことにした。

*****

ドアを開ける特訓を禁止された日からは手に包帯を巻き、一日中ゴトーのコインから逃げることを2番ホールで繰り返していた。
今までと違う事といえば、今までコインは一直線に飛んできたが、今回からは四方八方から飛んでくることだった。
ホール内を散々走り回され、足がもつれてこけると尻にコインが当たる。

「痛いです! 痔になったらどうするんですか!」
「ならさっさとあのドアを開ける方法を思い出せ」
「わ、分かってます!」

既にドアを開ける特訓を禁止されてから3日が経っていた。
はすぐに立ち上がりまたホール内を走り回った。

そんなことを繰り替えしながら、就寝前に包帯を解いて手の状態を確認した。
まだ気泡の跡はあるが、動かしても痛く無いほどには回復しており明日にでもまたドアノブを握れそうな感覚だった。
指を動かしながらゴトーが教えてくれた事実をもう一度考えてみた。
あの時、本当に自分はあの鉄の扉を開けられたのだろうか。
もしそれが本当ならどうやって開けたのか。

目を瞑って当時のことをぼんやりと思い出してみた。
あの時、”このドアが開けられなければ一生イルミとは会えない”と思った。
その感覚はまで、絶対に落とせない案件を任され、締め切りに間に合うか間に合わないかの瀬戸際に立たされた時に似ていた。
営業時代は散々だったがデザイン面を褒めてもらえた事で新しい居場所を確立した時、上司から大型案件を任された。
この案件を落とせば間違いなく会社の評判も落ち、自分の存在意義も危うくなるぐらいの大型案件は簡単なものではなく、プレッシャーに押しつぶされそうだった。
何が何でも納期に間に合わせ、先方を納得させられる物を作らなくてはならないと自分を追い込んだ時のような感覚によく似ていた。

「でも、まさか……ねぇ」

あの時、自分を追い込んだのは事実だ。
ゴトーからドアを開けるよう命じられた時、どこか期待されているような感じがした。
自分では出来ないと思ったが、期待しているからそう命じられたのだろうと思うと期待に応えられなかった時どうなるのか。
家族としても認められず、イルミとも一緒に居られなくなるのではないか。
そう思った時、の中で”絶対に期待に応えて、一緒に居たい”とう感情が爆発した。
もしかしたらそれが原因で扉が開いたのではないか。
しかし、仕事で意識が飛んだ事は無い。

こちらに来てから意識が飛ぶ事が多々あり、それはいつもゴトーと特訓をしている時だった。
知らずのうちに自分の中で何かが変化していて、今までなら気が付かないような些細な事にも気がつくようになっているのを少し実感していた。
だが、そう簡単に自分を追い込む事など出来ない。
しかし、やらずして次には進めない。
明日の特訓に備え、はゆっくりと息を吐きながらベッドに寝転がった。
イルミが戻るまで後4日。
少なくとも中途半端な状態で出迎えるのは申し訳ないと思った。
何としてでも開けられるようになりたい。
そう思いながらは静かに目を閉じた。


2020.11.02 UP
2021.08.03 加筆修正