パラダイムシフト・ラブ2

61

自分のキッチンに戻ったは隣のキッチンにぽつんと置かれた”おにぎり”を凝視した。
課題は寿司なのに何故此処におにぎりがあるのか。

「ギラクルさん、食通なのかな……いや、でもこれどうみたっておにぎり……後で教えてあげなきゃ」

”にぎり”だけ合っているそのおにぎりにはラップを被せてから備え付けの冷蔵庫の中や調味料ラックを調べた。
みりん、醤油、塩、砂糖などの一般的な調味料は全て揃っており、冷蔵の中を見るとバターや、ジャム、牛乳といった一般的な家庭にある物だけでやはり寿司のネタとして使えそうなのは入っていなかった。
腰に手を当てて考えていると2つだけ入っていた卵に着目した。

「卵、か……でもこれしか無いよね……2個で足りるかな?」

本来なら3個は欲しい所だが無いものは無いので致し方無い。
は卵と醤油、砂糖、みりんと鰹節のパックをキッチンに並べて一息ついた。
その様子をブハラとメンチは楽しそうに見ていた。

「ねぇねぇメンチ。あの子、あれ”たまご”作ろうとしてるよね」
「ふーん。学はあるようね、あの子」
「でもたまごなんて食べ飽きてるんじゃないの?」
「今更どんな寿司ネタも食べ飽きたわよ。問題は味よ、味」

は手首まで念入りに洗った後、手際よく鍋に少量の水を張り、強火で沸騰するのを待つ間に卵焼き用のフライパンを取り出して調味料を小皿に移していく。
そしてまな板に使う包丁を用意し、海苔を探した。
全戸棚を解放し、奥底に眠る海苔が入ったパックを見つけると小さく頷いた。
気泡が出来始める鍋を見ながら海苔を細長くカットし、鰹節が入ったパックを開けていつでも投下出来る状態で鍋を見つめる。
プクプクと泡が水面に立ち上った所で鰹節を鍋に放り込むとゆらゆらと綺麗な茶色をした鰹節が踊りだす。
火を弱めて煮立つ様子を見ながら寿司を載せる皿を出して後は待つだけだった。

あまりの手際の良さにブハラは小さく「慣れてるね」と腹を一度だけ叩いた。
合格者など出るはずが無いと思っていたメンチは面白くなさそうに表情を歪めた後「問題は味だって言ってるじゃない!」とそっぽを向いた。

おたまで出汁の味を確認した後、納得のいく味には小さく「良いかも」と小さく呟いて火を止めた。
鼻をくすぐる鰹の匂いに笑みを零しながら卵をボウルに割り、軽く油を敷いた四角いフライパンを弱火で熱し始めた。
先に分けておいた調味料で溶き卵に下味をつけ、細かく味を確認しながら出汁を加えて調整する。
目を瞑ると思い出す祖母の厚焼き卵の味は完璧に再現は出来なかったが、それに近しい味を感じては溶き卵を熱していたフライパンに投下した。
食欲をそそる熱の味にブハラがよだれを垂らしたのをは知らない。

「ねぇねぇ、メンチ! オレの分もあるかな?!」
「はぁ? さっき満腹って言ってたじゃない」
「なんだか美味しそうな匂いでお腹が空いてきちゃったよ」
「ダメよ。あれは私の」

先ほどまではつっけんどんな態度だったが、しっかりとした下準備と楽しそうに作るに興味が湧いたのかメンチは足を組み替えながら「どんな味か見てやろうじゃないの」と笑う。
これには木の上で参加者の動向を見守っていたサトツも「ふむ」と顎に手を当てた。
ところどころ「あ……」と不安げな声を上げるを見守りながらサトツはメンチの方を見る。
今まで誰にも関心を示さず、”自分が一番食の事を理解している”とアピールしていたメンチがたった一人の女に期待の眼差しを向けているのを見てサトツは”もしかすると”と感じていた。
卵を丸める作業に緊張しているのか額を拭うの表情は固く、それでもやはりどこか料理を楽しんでいるように試験官達には見えた。

少し力が入りすぎてしまったからか形は崩れてしまったがなんとか出来た厚焼き卵をまな板に移し、冷ますようには手で風を送る。
卵に触る前にもう一度手を洗い、指先で弾力と熱を確かめながら包丁をゆっくりと入れた。
綺麗に切り終えたそれにふわりとラップを被せ、いよいよシャリを握る作業に入るが、これにはも初めてでどうすれば良いの分からず不安だった。

「え……これで、良いのかな?」

テレビで見た寿司職人の番組を思い出しながら手の平に米を乗せ、空いた手の人差し指と中指で見覚えのある形を作る。
あまり力を込めすぎると固くなってしまい口の中に入れた時に違和感が残るが、力を抜きすぎると口の運ぶ前に形が崩れて大変なことになる。
ちょうど良い塩梅が分からず、何個も作ってみるが結局答えは見つからなかった。
その試行錯誤する姿にメンチは「困ってる困ってる」とニヤニヤしながら笑った。

「こ、これ……かな?」

20個ぐらい作った形の中から一番形と固さが良いものを二つ選び、ラップを被せておいた厚焼き卵を取り出してシャリに乗せた。
細く切った海苔を巻きつけ、お皿に盛ると緊張感が一気に増した。
いよいよ初めて作った”握り寿司”を食べてもらうことには生唾を飲み込んだ。
震える手で皿を持ち、メンチとブハラが待つ前方のステージに向かう足取りは重い。
人に料理を食べてもらう経験はあるものの、審査をされるのは初めてて心臓がどくどくと煩い。
ゆっくりと足を進め、メンチの前に立つと少しだけ頭を下げた。
その様子にメンチは組んでいた足を揺らす。

「406番の、です。よろしくお願いします」
「はいはいよろしくー。所であんた、出身は?」
「しゅ、出身……ですか?」
「そう。まさかジャポンじゃないわよね?」

メンチの前に皿を置く時、”ジャポン”という言葉には一瞬反応しかけたが、すぐに首を横に振って「違います」と答えた。

「スシはもともと知ってたの?」
「えっと、聞いたことがあるぐらい……です。実際に作ったのは、今日が初めてです」
「魚をネタにしなかった理由は?」
「……この森で捕まえる魚は淡水魚だと思ったからです。淡水魚には寄生虫が多いですし、私のような素人が手を出したら食中毒になると思ったので……使わないネタにしました」

聞かれたことを素直に答えると後ろで見ていたブハラが笑った。
「メンチが食中毒になるわけないよ!」と大声で笑うものだからは驚いた。

「ブハラ、失礼よ!!! あたしだって腹を壊すことぐらい」
「美食ハンターになってから無いだろ?」
「……そうね、無いわ。けどね! けど料理にはそういう知識も必要よね。適してる食材、適して無い食材。適して無い食材で課題をクリアするにはまず適してる食材を熟知していないと出来ないわ。貴方、向いてるかもね」
「な、な、何に……ですか?」
「美食ハンターよ。あたし達はただ闇雲に美味い料理を求めてるだけじゃないの。食材の可能性を追い求め、まだ誰もが知らない味を探求していく。それがあたし達よ。興味があるならあたしが鍛えてあげても良いわよ?」

「ま、合格出来たらの話だけどねー」とメンチは綺麗に持った箸を使って寿司を掬った。
まず匂いを嗅ぎ、様々な角度から厚焼き卵を見ていた。
その鋭い視線は先程までの目とは違い、真剣で、プロの目をしているようにには見えた。
緊張に押しつぶされそうな思いで下唇を噛みながらメンチを見ていると、メンチはゆっくりとそれを口に入れた。
口の中でゆっくりと味を確かめながら食べるその姿に喉が鳴る。
それはそれは長い時間のように感じた。

「ど、どう……ですか……」

煩い鼓動を全身で感じているとメンチは目を瞑った。

「焼き立ててまだ熱の籠もってる卵にラップをかけたでしょ? 水蒸気のせいで湿っぽくなってる」
「うっ……」
「そしてシャリ。形は良いけど、まだ若干固さが残ってるわね」
「は、はい……」
「ネタだけど、厚みが足りないから折角の味が口に広がる前に物足りなさを感じるわ」
「すみません……」

プロからの厳しい指摘にの声がだんだんと小さくなる。
言っていることは正しく、文句のつけようがなかった。
それにメンチは最初から”何個作ってきても良い”と言っていた。
貰ったアドバイスをもとにもう一度チャレンジしようと思い始めた時、メンチから最終判断が下された。

「でも鰹の深みを感じる。つまり、粗はあるけど美味しいってこと」
「……お、美味しい?」
「そうよ。美味しい。ってことは合格。このあたしが美味しいって言ったら合格。それだけよ」

もう一貫を口に含みながらメンチはニコリと笑った。
不合格だとばかり思っていたは驚きの表情を隠せず「え? え!?」と混乱しているとブハラが前に出る。

「ちょっとちょっとメンチ! そんな簡単に合格にして良いの!?」
「何よ? 文句でもあるわけ?」

口を動かしながらメンチはブハラを見上げる。
ごくんと音を鳴らして喉元を寿司が通ると、メンチは「この中で一番料理に対して誠実な対応していたじゃない」と頬を膨らませる。
ポカンと口を開けて立っているに視線を戻すとメンチは笑った。

「それに良い味を持ってるしね」
「で、でも私……至らない点がいっぱいありますよね……」
「細かいことをあげたらキリが無いけど、その分”料理”を楽しんでた。理想に近づける努力もしてたみたいだし、人を思いやる行動もあった。可能性のある子を落とす程あたしは意地悪じゃないわよ? それとも何? 不合格にして欲しい?」

は首を横に振り「滅相もないです!」と慌てた。
「冗談よ!」と笑うメンチは右手を掲げ、「406番! 二次試験後半、合格!」と叫び、パチンと指を鳴らすと機械音が鳴り響いた。
が振り返ると自分が使っていたキッチン台だけが地中へと、まるでエレベーターのように下がっていき、姿が見えなくなると蓋が閉まりキッチン台が跡形も無くなくなった。
一体どういうことなのかとメンチに尋ねるとメンチは足を揺らしながら得意げな顔で「証拠隠滅よ」と答えた。

「証拠、隠滅……?」
「他の参加者がカンニングしないように。使った材料、器具は全て隠させてもらうわ。じゃないとみーんな同じ物を作ってくるでしょ? で、合格者のあんたは此処で待機。列に混じって最初みたいに指導されちゃたまったもんじゃないわ」

そういうところもしっかり見られていたのかと思い、は苦笑いを浮かべた。
しかし、自分だけ早々に合格をして良いのかと不安になりながらは言われた通りブハラの隣に用意された椅子に腰掛けて川魚を捕まえに行っている参加者の帰りを待った。


2020.11.23 UP
2021.08.05 加筆修正