パラダイムシフト・ラブ2
91
足音が近づくにつれ手に持った針に力が篭る。
殺すと強気な事を言ったが、自分の中で本当にそれが出来るとは思えなかった。
しかし、次に進むためには自分が強くならなくてはならない。
もうこれ以上お荷物になるのは御免だ。
何もしないで、ただ屋敷で、イルミの隣で悠々自適に暮らしているようでは日本に居た時のレールに乗った人生と何ら変わりない。
レールを変えるには自分が変わるしかない。
頭ではそうわかっていても、いざ本番となると足が震えてくる。
どんな相手が来るのかも分からない緊張感には胃の中の物が逆流してくる気がした。
「や、やっぱり話し合いで……」
「話してる間に死ぬかもね」
「それは……困ります」
は生唾を飲み込みながら大きくなる足音に身震いしていた。
やらなきゃやられる世界の緊張感に押しつぶされそうだった。
暗闇から姿を現したのは黒髪を少し伸ばし、額に鉢巻のような物を巻いた男だった。
長やりを手に持ち、露わになる腕は太く、とてもじゃないが勝ち目があるとは思えなかったは一歩後ろに足を引いた。
「退がるな」
張り詰めた空気に響きイルミの声には体を硬直させた。
横目でイルミを見ると無表情の瞳と視線が交わる。
は下唇を噛み締めながらもう一度前を向いた。
「これはこれは。ラッキーで試験を突破しているお嬢さん、と……?」
男はを見た後に壁に寄りかかるイルミを見る。
「こんな男は参加者に居た記憶は無いんだが?」
「オレの事は気にしなくて良いから。お前の相手はがしてくれるよ」
「ほう。こんな如何にもか弱そうなお嬢さんが私の相手を?」
急に話を振られたは肩を強張らせながら小さな声で「よ、宜しく、お願いします」と小さく頭を下げながら零した。
これから殺し合いが始まろうとしているのに何とも緊張感のない言葉に男は額に手を当てて笑い出した。
「お嬢さん名前は?」
「……です」
「私はゴズだ。そういえば、仲間の連中はどうした?」
「……今は事情があって、別行動をしてます」
「なるほど。それで今回はこの男か。よほど男をたらし込むのがお上手と見た」
ゴズの言葉には眉間に皺を作った。
男と女などこの試験には関係ない。
自分の事を何と言われようと構わないが、自分を迎え入れてくれたキルアやゴン達の事を貶されるのは堪らなかった。
しかし反論すれば相手の思う壺にハマるのではないかと思うと何も言えなかった。
唇を噛み締めながら堪えるを見てゴズは槍を持つ反対の手を小さくあげた。
「……まず先に言っておきたいんだが、私は不要な戦いはしたくない」
向こうの予想外の言葉に一瞬だけ緊張が解け、は「へ?」と面食らい、思わず手から力が抜けて針を落としそうになった。
イルミは興味がないのかそっぽを向いてしまい、指で毛先を遊び始めている。
「私はある人物を探している」
「誰、ですか?」
「44番のヒソカという男だ。二人はソイツを見なかったか?」
「見てません……けど」
一瞬だけはイルミの方を見たが、髪の毛で遊んでいる。
「ゴズさんの……ターゲットですか?」
「違う。しかしあれ程の手練れはなかなか居ない。この機会に一戦手合わせしたいんだ」
「ならを倒したら教えてやるよ」
男、ゴズの声を遮るようにイルミの声が響き渡る。
何てことを言うんだとの口から思わず「は!?」と大きな声が出た。
ゴズはを見ながら肩を落とし、小さく首を横に振った。
「言っただろう? 私は不要な戦いはしたくない、と。こんなひ弱そうなお嬢さんなんぞ……一瞬で決着がついてしまう」
「はゾルディック家の人間だよ?」
「ゾルディック家……?」
「触れたら大変な事になるから気をつけた方が良いよ」
ゴズの目が細くなりを凝視する。
確かにの師匠と呼べる人は執事長であるゴトーではあるが、自身はゾルディック家の人間ではない。
最低限の身の守り方しか知らないの顔から徐々に血の気が引き、唇が震えだす。
「あの暗殺一家で有名の、ゾルディック家か?」
「そうだよ」
「ま、待って! わ、私違い……」
の言葉よりも先にゴズが動き、の頬すれすれを槍がすり抜ける。
はらりと舞うの髪の毛にはすぐに退がり、距離を取った。
もう少し反応が遅れていれば確実に槍はの口の中を貫通していた。
「ゾルディック家がお相手とは光栄だ! 44番の前に是非とも手合わせ願おう!」
「ご、誤解です! 私は! 違います! しがない、一般人です!」
こんな小さな針一本でどうしろと言うのか。
振り回される槍を避けるので精一杯のの目は回りそうだった。
逃げる場所も助けてくれる人も居ない現状には奥歯を噛み締める。
相手の武器は長槍でこちらはアイスピック程度の大きさの針しかないため、圧倒的にリーチに差があり、相手の懐に飛び込まない限りに勝機はない。
暗闇に入っては不利だと感じたは身を屈め、頭上をかすめる槍を避けて走り、ゴズの反対側に回りこむと息を整えながら針を両手で握りしめる手に力を込めた。
「どうしたゾルディック! 逃げてばかりでは楽しくないぞ!」
振り返るゴズの瞳を見て一つ気づいたことがあった。
ゴズは単純に”戦い”という行為に楽しさを感じているだけで、殺気は感じられなかった。
初めてイルミに会った時や、ヒソカに近づかれた時の方がよっぽど怖かったのを思い出してはゆっくりと息を吸った。
まず相手に近づくには長槍が危険すぎる。
何か手放す作戦はないかと考えながら真正面から突かれる槍を避けた。
威力も速さも申し分ないのその槍の動きを一時的に止めるにはどうすれば良いのか。
一か八かやってみるしかない。
そう思ったはわざと壁の方に背を向け誘い込んだ。
「何がゾルディックだ! 所詮は女! 討ち取ったぞ!!!」
ゴズは長槍をの顔に目掛けて突いたが、寸でのところでは身を屈めた。
頭上に突き刺さった槍を抜かれる前に間合いを詰め、腕の関節部分に思い切り持っていた針を突き刺した。
ゴズの短い悲鳴が響きわたり、反撃を食らう前に渾身の一撃であるビンタを一発頬に打ち込む。
体制を崩したゴズの腹を膝で蹴り上げた後、そのまま脛にも一撃を入れる。
「えっと、えっと……次……次は!」
相手が怯んでいる隙に何とかしなくてはに成す術はない。
頭の中で必死に幼い頃に父親と見ていたプロレスの試合の技を思い出そうとするが出てこない。
あたふたしている間にの喉に魔の手が伸びる。
「このクソ女っ……!」
大きな手がの首を掴み、一瞬にして息が吸えなくなった。
ギリギリと締めつけてくる痛みと苦しさには目を見開きながらゴズの腕を叩いがビクともしない。
急に感じる浮遊感には足をばたつかせると思い切り壁に体と頭を打ち付けられて目の前がチカチカした。
徐々に体から力が抜けていくのが分かり、の目に涙が浮かぶ。
「く、くるっ……しぃ!」
徐々に意識が遠くなるなか、こんな事で終わっても良いのかとは考えた。
折角此処まで来たと言うのに、こんなところで試験を、人生を終わらせて良いのかだろうか。
もっとやりたいことがあったはず。
こんなところで終わって良いわけがない。
「何がゾルディック家だ! こんな弱い女が居るようじゃ地に落ちるのも時間の問題だな!」
は目を開き、朦朧とする意識の中でゴズの瞳を真っ直ぐに見た。
先ほどは感じられなかった殺意をしっかりと感じ取れた。
もうゴズの中に情けなど無いことが分かると、は関節に差し込まれている針に手を伸ばして引き抜いた。
自分の首を絞め上げる手に刺そうと振り上げたところで首の締め付けが解放され、は地面に落下した。
咽せ返りながら体を起こして何が起こったのか見上げるとゴズの顔が徐々に変形し始めていた。
何度か見た事があるその光景には目を泳がせると、ゴズのこめかみには一本の針が刺さっているのが見え、確信した。
「グギッ……! ギギ!」
ガキンゴキンと痛々しい音を上げながら変わる骨格にまさかと思いはイルミの方を見る。
「な、何で……? だって、助けないって……」
伸ばされたゴズの手に小さな悲鳴を上げながらは座ったまま後ずさる。
に近づこうとしたゴズは足に力が入らないのかその場で崩れ、うつ伏せの状態で醜くもがいていた。
手足を動かしながらに近づいてくるゴズの姿が昔興味本位で見たホラー映画のワンシーンに良く似ていた。
「わ、わぁああっ!!! 来ないでっ!」
は何も考えずにゴズの頭を力の限り引っ叩いた。