あなたの元に永久就職

3

「ロバート?」

相手からの反応で思わずバイト仲間達で囁かれている”ロバート”というあだ名を口にしてしまったことに漸く気がついたは慌てふためきながら「あ、ご、ごめんなさい! 何でも無いです!」と謝った。

「って言うか……あ、あの……パン……踏んで、ます」

色々聞きたいことは山程あるがとりあえず折角店長から貰ったパンが踏み潰されている事を伝えると男は一瞬身体を震わせた。
革靴の底の形に変形したコッペパンを二人は見ながら沈黙が訪れる。
が次の言葉を探していると先に口を開いたのは男の方だった。

「これは失礼しました。弁償させて下さい」
「え、えぇえ、べ、弁償だなんてそんな!」
「しかし、これは貴女の夕飯だったのでは……」
「そ、そうなんですけど! そうなん、ですけど……ちょっと今お腹、空いてないなーって、あはは」

「なので気にしないください」と笑って誤魔化しながら少し視線を逸らすと地面に付着したどす黒くくすんだ赤色の何かが無性に気になった。
あれは本当に血なのだろうか。
地面に散らばってしまったパンを回収している男の手元を見ると大鉈のような物にも同じ色の物が付着していた。
その大鉈を器用にスーツの下に隠すのを見ての脳が全力で“これは事件だ”と反応する。
事件に関わる前に一刻も早くこの場から立ち去ろうと身体を起こしたが、捻った足首が言うことを聞かない。

「立てますか?」

パンを回収してくれた男が袋を持ちながら手を差し伸べてくる。
事件性を感じる男の手を掴んで良いのだろうかと悩んでいると男はの目線にしゃがむと足首を首を指差した。

「もしかして捻りましたか?」

少しだけ熱を持った足首を覆う手に若干力が籠もる。

「こ、こんなのただの掠り傷なんで大丈夫です! 舐めとけば治りますから!」
「捻挫は舐めても治りませんよ」
「言葉の綾ってやつです……」
「そうですか。では早急に病院に」
「びょ、病院!?」

冗談ではない。
殺人犯かもしれない人とそんな所に行けば確実に事件に巻き込まれる。
そもそも何故男がこんなにも冷静でいられるのかがには分からなかった。
つい先日までは会いたくて仕方なかった相手とまさかこんな状況で再会するとは思わなかったし、再会はもっとロマンチックなものを期待していただけにの顔から血の気が引き始める。

「け、結構です! 本当に! 大丈夫なんで!」
「はぁ……」
「足はちょっとその、痺れただけです!」
「そうですか。まぁそれだけ元気があれば大丈夫そうですね」

男は袋をに渡すとゆっくりと立ち上がり、少し乱れた髪の毛を撫で付ける。
そんな姿も様になっていてつい見惚れていると男はだるそうにネクタイを外し、それをの膝の上に落とした。

「膝、擦りむいています。こんなのでも止血程度には役にたつでしょう」

ポカンと口を開けたままその背中が小さくなるまで動けないでいたは咄嗟に地面の付着物に視線を戻したが、それは跡形も無く消えていた。

「な、何だったの……?」

呟いた言葉は闇夜に静かに溶け、膝に視線を落とすと破けたストッキングに血が滲んでいた。

*****

フラフラになりながら帰宅した後、自分が見た光景をは思い出していた。
あれは一体何だったのだろうか。
テレビのチャンネルをいくつか切り替えてニュース番組を見てみるが殺人事件の報道は何処もしていなかった。
まだ遺体が見つかっていないのだろうか。
だとすると遺体は何処かの路地のパイプの下にあるのかもしれない。
しかしそれよりも気になったのは自分が転んだ時に聞いた何かを殴る音だ。
そして消えた血痕。
の頭で考えるにはキャパオーバーな内容にはゆっくりと立ち上がり「化粧落そ……」と洗面所へと向かった。

結局次の日になっても殺人事件の報道は無かった。
よっぽど証拠隠滅が上手いのか、それとも自分の常識とは違う何かが知らない所で起こっているのか。
は歯磨きをしながら陽気な芸人が笑いながら人気スイーツの紹介をしているのを見ながら顔を顰めた。
それでも心の何処かで”ロバートはそんなことをする人じゃ無い”と否定していた。

血は洗ってもそう簡単には落ちない。
ましてや時間が経過しているものであれば尚更だ。
借り物を汚すわけにもいかず、結局は渡されたネクタイを膝に巻く事はなく、手に持って帰ってきた。
今はリクルートスーツが掛かるハンガーと一緒に掛けられたネクタイを見ながら「何だったんだろう」と首を傾げた。
いつか返せる日が来るだろうと信じ、それまでこのネクタイは預かっておく事を決めてはバイトに行く準備をし始めた。
しかし、目撃者である自分の店に再度来るだろうか。

「来るわけない、か」

自嘲気味に笑いながらは化粧ポーチに手を伸ばした。


2020.12.20 UP
2021.10.27 加筆修正